その女は村のものだ
三島由紀夫は泉鏡花を「貧血した日本近代文学の砂漠の只中に、咲き続ける牡丹園を開いたのである」と評している。写実主義や自然主義の衣を纏った私小説が幅をきかす文学界。そんな風潮に対峙し存在したのが鏡花だ。その民俗性、その怪奇性、その浪漫性、その物語性、そのエロチシズム、なにをとっても破格で、日本の伝統芸能も神話も、地域の伝承も風俗も鏡花の作品の中で息をついてきた。その意味から、今回の宮城聰『夜叉ヶ池』公演は、コロナ禍で逼塞し酸欠状態の我が日本の精神風土と、干からびた我が感性にとって期待の演目であった。
舞台が始まった。暗闇から男女が浮かび上がる。所は越前琴弾谷、時は現代とある。
茅屋の前に流れる清水の脇で、米を研ぐ女と屋内から話しかける男。ともに白髪の二人。夫が妻をからかい、妻がすねる様子から仲の良い夫婦の暮らしぶりが見て取れる。どこまでも清貧にして静謐な幕開けだ。
夫、萩原晃は元民俗学研究者。今は鐘突き男となって日毎三度の鐘を鳴らしている。定時に鐘が鳴らなければ、夜叉ケ池の龍が暴れ、この里に洪水をもたらすという伝承を守っている。折しも、付近六ケ村は大干ばつ。萩原の留守に、村人たちがこの屋を襲い、妻の百合を大八車に縛り付ける。村一番の美しい女を生贄として夜叉ケ池に奉ずれば雨が降るという俗説を信じてのことだ。百合が連れ去られる間際、晃が戻り、百合を取り戻す。しかし百合は夫と村人の狭間で自らの命を断つ。晃は鐘の綱を切り、自らも命を断ち百合の後を追う。丑満つの鐘は鳴らず、村はたちまち大洪水に襲われ、濁流に深く沈む。これが人間界の終幕だ。
もう一つの世界、異界では別の出来事が同時に進行している。夜叉ケ池の龍神である白雪姫が、何百年と続く人間との約束に縛られ、千蛇ケ池の恋人のもとへ行く事が出来ずもだえている。鐘が突かれなくなった時、その軛は外れ、白雪は高らかな笑いと共に、恋焦がれる恋人のもとへ飛び立つ。夜叉ケ池の堰は切れ、里は水に沈み終演となる。人間界と異界は洪水という大惨事の中で重なるのだ。
何と言っても印象深いのは、村人たちの百合襲撃シーンだろう。村長はじめ小学校教員、神官、代議士、小力士などそれぞれが団扇太鼓を片手に現れる。村の水を守るため、女を裸に剥き牛の背中に括り付けるという。その行為を崇高な生贄の儀式と主張する神官。しかし村人達の下卑た笑いと震えるような太鼓の響きが、卑しい自分たちの欲望を露わにする。集団が暴力と欲望を増幅させるのだ。お国のための犠牲と喚く代議士は、自分自身の命は後生大事という卑劣漢だ。
百合は理不尽な村民の要望を、無碍にできない。自分は村の人間と自覚しているからだ。そういえば百合はずっと、晃が自分のもとを去ってしまうことを恐れていた。晃にとっては世間から隠れる術の白髪の鬘も、百合にとっては二人静かに老いていく願いを込めてのことだろう。百合が抱く赤子の人形はその願いの象徴だ。尤も二人とも、茅屋での若い自分たちの甘く秘めやかな暮らしを村人から隠したかったことは確かだろう。
百合が恐れるのは、男が出て行った場合、自分は男を追いかけていくことができないからだ。契った相手が村外の男でも、自身は村という古く固い軛から抜け出ることができない。襲撃場面で村の男どもが繰り返すのは、村のためという殺し文句だ。晃と村との狭間で、自らの命を断つしかなかった百合。すべてを解決、いや決着させるのが二人の死であり、洪水による村の壊滅であった。
異界はその山村に生きる人間達の創り出した世界であり、村全体が共有する潜在意識でもある。伝承には時代と共に俗説も混じる。都会から来た晃は近代的な意識を持ちながらも、伝承と娘に取り込まれた木乃伊採りだ。全体を俯瞰することのできたのは晃の友人の山沢学円ただ一人。いくつも重なり輻輳する世界を繋ぎ合わせ記録する。
いたましい悲劇にも拘わらず、観終わった後の心のどこかに爽快感の残るのは何故か。利己的で貪欲な村民と、村という呪縛の共同体が消失したからというだけではあるまい。
「鐘ヶ淵はご夫婦の住まいとしましょう」という白雪の言葉。村人たちは魚や田螺、鰌となっていると知れば、一つの世界の崩壊は、もう一つの世界の新たな営みへと変貌していることが感じられるのだ。
考えてみれば、卑劣、低俗と思えた村人たちだって、必死に生きている人間達だ。欲望剥き出しは醜悪だが、誰だって欲望がある。晃だって百合という美しい娘がいなければ、一人で鐘撞き男になってはいまい。
宮城はこの輻輳する物語を、清には濁を、純には卑を、正には邪を、貴には俗をと強い明暗で色づけた。出だしを極々ゆったりと清澄に始め、人間と眷属たちのドタバタを戯画的に、村人たちの襲撃シーンを思い切り陰湿かつ暴力的に、夫婦の悲劇は崇高に、そして最後の白雪の恋の成就を、神々しいほど艶やかにと、愛しく詩情溢れる世界を出現させた。
見せ場の白雪の登場場面は美しく妖艶で鳥肌がたった。終演後のアーティスト・トークでゲストの木ノ下裕一氏が姥役の演技を、かつて人間だったに違いない姥と白雪の背景と、それ故に二人に流れる人間的情感を感じさせ秀逸だったと誉めた。さすがの評である。当然ながら、ダイナミックに輻輳する物語を支えていたのはそれだけではない。小心にして暴力的な村民たちや、姫を慕い恐れる蟹や鯉など眷属ら脇役たちの好演だ。SPACの実力が体感できる。
古い伝承世界と近代精神の迷路に分け入り、勧善懲悪の型を纏いながら、村や国など共同体の集団暴力を皮肉り、若い男女の悲劇的な死と、異界における恋の成就を大団円とした物語はしかし、その底に人間の業と悲しみが流れていた。カーテンコールの間も、紗幕の後ろで淡く照らされ続けた百合と晃の亡骸は、その象徴である。すべてをご破算にする洪水にカタルシスのようなものを感じさせたのもそのせいだろう。
公演実現にはコロナ禍の厳しい状況の中、役者、スタッフ多くの人達のどれほどの苦労や努力があったことか。その結果は酸欠状態の社会への酸素供給どころか、広大な大地に春を呼ぶ慈雨になったと言っていいだろう。