劇評講座

2022年8月31日

秋→春のシーズン2021-2022■最優秀賞■【桜の園】小田透さん

カテゴリー: 2021

チェーホフ・アフター・ベケット

 静かで、翳っている。夜明けを待つ薄暗がりの舞台は、空虚に広がっている。毛足の長いくすんだ色の絨毯は、まるで砂浜のように、歩く人の足跡を残す。細いフレームだけで構成された直線的で縦長の調度品や椅子は、繊細にして無骨であり、硬くて儚い。両脇に垂れ下がるオフホワイトの紗幕は、空間を区切るというより、舞台袖との境界を曖昧にしている。後景全体に圧倒的なスケールで投影された雲の映像は、インスタレーションのように、すこしずつ移ろいゆく。ときおり、鳥が空を横切る。それとなく執拗に繰り返されるアンビエンスな声と音は、陶酔的であると同時に、かすかに不安をかき立てる。悲劇的な出来事がこれから起こることを予感させるかのように。

 演出家ダニエル・ジャンヌトーによる、SPACとフランスのジュヌヴィリエ劇場の共同制作となるアントン・チェーホフの『桜の園』は、微睡のなかで始まる。それは、悪夢ではないとしても、願望充足が夢見られる悦ばしい眠りではない。光と闇の、生と死の、歓びと哀しみの中間地帯。夢想が現実に染み出し、現実が夢想と混ざり合う。そのような「あわい」が、日仏バイリンガルのディスコミュニケーションな演劇空間として、2時間半近くにわたる静かな持続の強度として、表象されていく。

 劇作家は『桜の園』を悲劇として初演したスタニスラフスキーにたいして批判的であり、自身のテクストを「4幕の喜劇」と性格づけていたが、ジャンヌトーの演出は、悲劇的ではないにせよ、喜劇的とも言いがたい。ジャンヌトーの舞台において前景化されるのは、喜劇でも悲劇でもなく、哀しみだ。しかも、解消可能な具体的な苦悩ではなく、存在することそれ自体の寂しさ。

 無自覚に不器用な振る舞いが周囲の笑い者になるエピホードフ(加藤幸夫)やピーシク(小長谷勝彦)は、空気が読めない人間の痛々しさを放つ。手品を披露するトリッキーな家庭教師のシャルロッタ(ナタリー・クズネツォフ)は、友を持たない孤独さを吐露し、アイデンティティの迷子状態を体現する哀しき存在である。真面目に仕えているように見せかけて、隙があれば小銭をちょろまかすヤーシャ(大道無門優也)のふてぶてしさは、不快な狡さでもなければ、小気味よい狡賢さでもなく、ままならない不誠実さのどうしようもなさの現れだ。主人の帰りを前にして「気絶しそう」と口にして身体を震わせるドゥニャーシャ(山本実幸)は、喜劇を通り越して、不条理なものを舞台に顕現させる。その意味では、適度に人間的な滑稽味をすばらしくコントロールしきっていたガーエフ(阿部一徳)は、もしかすると、あまりにもバランスがとれすぎていたかもしれない。

 歓びのトーンは慎重に抑制されていた。理想主義的な希望に充ちた未来を謳うトロフィーモフ(オレリアン・エスタジェ)やアーニャ(布施安寿香)の言葉は、薄暮の灰色の舞台によって相対化され、アンチクライマックスを形成するだろう。啓蒙的な熱気がほとばしる批判的なセリフは、虚空に投げつけられる。まるで真実に応答することを怖れるかのように、まるで真なる言葉を受けとめることを拒否するかのように、キャラクターたちはあらぬ方向に身体を背けたり、床に寝そべったりする。

 全体を支配するのは漠然とした不安である。ホラー映画においてサスペンスを盛り上げる効果音のようなものが、ラネーフスカヤ(鈴木陽代)の独白に寄り添うことになる。愛を超越していると嘯くトロフィーモフを詰問するラネーフスカヤの言葉は、デモーニッシュな凄味を帯びる。不安げに競売の結果を待ちながら、オスティナートなマリンバの旋律に絡み合うさまざまな煌めくような打楽器の響きをBGMに繰り広げられる舞踏会を背景に、裸足で膝を抱えながら椅子のうえで身を縮めるラネーフスカヤの姿は、本劇の瞬間的な要約かもしれない。これはもしかすると、ラネーフスカヤの心象劇かもしれないから。

 戯曲のいたるところに書き込まれた「間」のト書きを字義どおりに表出させることで、チェーホフがキャラクターたちに語らせる言葉のズレ、会話のかみ合わなさが、不条理なまでの怖ろしさや不気味さを帯びる。日本語とフランス語という異言語で俳優たちが対話を繰り広げているからというあたりまえの理由で嚙み合っていない部分はたしかにある。しかし、この舞台の徹底されたディスコミュニケーションは、使用言語の問題のせいではないはずだ。伝わらない言葉のもどかしさ、いやそれどころか、言葉というものがそもそも届かないものであることが主題化されているのだ。それほどまでに、日仏バイリンガルという特異な形態は演出手段に取り込まれていた。舞台が進むほどに、わたしたちは、異言語を自明のものとして受けとめるようになっていたのだった。ラネーフスカヤに大恩を感じるワーカホリックという意味では似たもの同士である、家政を取りしきる養女ワーリャ(ソレーヌ・アルベル)とロパーヒン(カンタン・ブイッスー)が結ばれないことは、ジャンヌトーの演出においては、きわめて自然なことであった。

 舞台後景に映し出された曇り空は、競売結果を告げるロパーヒンの独白とともに消えてしまう。舞台はますます空虚になり、退去を余儀なくされたラネーフスカヤたちを描き出す最終幕の舞台は、何もない空間に近づいていく。絨毯は脇に寄せられ、床板がむき出しになる。そこで最後に残された時代遅れの存在である老召使フィルス(アクセル・ボグスラフスキー)の「このうつけ者」というつぶやくような言葉――チェーホフの遺言のような独白――で舞台は暗転するが、ジャンヌトーの演出のクライマックスは、おそらく、4幕のラネーフスカヤとガ―エフの桜の園との別れでもなければ、3幕の桜の園を競り落としたロパーヒンの勝ち誇った演説でもなかった。トロフィーモフの理想主義的な言葉でもないし、桜の園という生まれ育った環境を乗り越えていこうとするアーニャの決意でもない。自らの感じる愛の気持ちに正直に生きようとするラネーフスカヤの悟りでもない。2幕にだけ登場する「通りがかりの男」(大内米治)のシーンである。

 それは不思議な訪れであった。紗幕がなくなった舞台両脇から、目に痛いほどの強い光が注がれる。茶色のパーカーとパンツをまとい、青のダウンジャケットをはおり、黄土色のベースボールキャップをかぶった物乞いが、とてもゆっくりと、怖ろしいほどにゆっくりと、下手から上手へと歩いていく。全員の目が、彼に注がれる。誰もが彼のほうを向く。闖入者だけが、すべての人々の注意を収斂させることができるのだ。彼はいったい何者なのか。チェーホフのテクストは、彼に「このひもじいロシアの同胞」とつぶやかせるけれど、ジャンヌトーにしてみれば、彼は訪れるはずのない神的な他者であり、絶対的な異者なのかもしれない。彼を前にしてワーリャは「怯えて叫び声をあげる」が、彼女の烈しい驚愕と後退は、同質的で安定的であると錯覚していたいまの社会につねにすでに存在していた他なる隣人を発見したことを理解できないでいるわたしたちの当惑や困惑の表象ではなかっただろうか。

 ジャンヌトーもチェーホフも、そのような他者をどうしたらいいのかの答えをわたしたちに教えることはない。それどころか、ここでは、明確な問いすら立てられていない。彼らはとりたてて異なるものとの共生を想像するようにわたしたちに強いているわけではない。しかし、にもかかわらず、多面的に、多層的に、伝統的な場の歴史的に必然な解体を描き出すことで、彼らは間接的に、間接的だからこそいっそう有無を言わせぬかたちで、わたしたちに問題を突きつけていたのである。はたしてわたしたちはいまここの現実世界をあるがままに受け入れ、あるがままに生き続けていいのか、と。