劇評講座

2022年9月8日

SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2022■入選■【ギルガメシュ叙事詩】上鹿渡大希さん

カテゴリー: 2022

「ギルガメシュ叙事詩」における語りと崇高さ

 ギリシャ神話や日本古代の神話など「大きな物語」を取り上げることの多い宮城聰による新作「ギルガメシュ叙事詩」。世界最古の文学作品とされるこの作品を宮城がどのように立 ち上がらせたのか。
 宮城の演出でよく見られる、登場人物の動きと発話を分解して「ムーバー」と「スピーカー」という二人で一人の役を演じる方法が本作でも採用された。「ギルガメシュ叙事詩」は口承文芸であり、その物語がどのように伝えられたのかについては今現在全てを知ることはできない。しかし口承文芸という点から私は、物語というプロットの真実は正しく伝承されても、その真実に至る過程である人の機微や気持ちの抑揚のようなものは、この物語を紡いできた人そのものの演出が加わったものだろうと想像する。宮城の演出でいうと、物語は「ムーバー」によってプロット的な真実が語られ、「スピーカー」によってそこに至る人間的な震えや緊張が語られる。身体と発話をわざわざ切り離すことによって、物語の大きさを「ムーバー」から感じられる一方で、物語の大小や幅、人間臭さや振動を「スピーカー」から受け取ることができる。 
 例えば、ギルガメシュとエンキドゥが対決するシーンでは、粘土板に描かれた絵のように二人の対立が可視化される。やはり観客が目から見る情報(「ムーバー」からの情報)は作品の「物語」的な部分にフィーチャーし、一種メタ的に物語の大きさを意識させる。それに対して例えばレバノン杉の森林伐採について議論するという、個人的価値観に基づく部分では「スピーカー」の役割は大きい。大きい物語の中の、ミニマムさのようなものがたしかに存在し、決して私たち観客は物語を追うだけの存在ではなく、そこにある小さな物語に震え、共感や反発を感じる。二人一役の方法が見事にこの物語を語るツールとして機能している。
 また、この大きい物語を形作るものとして、駿府城公園の野外舞台の存在は大きい。物語が進むにつれて日が暮れていくが、私はフンババを討伐した後の静けさが訪れた時に初めて、すでに日が落ちていたことに気がついた。フンババのシーンの盛り上がりから一転、それがなくなりステージ上に無が訪れるときに初めてそのなにもない空間へゾワゾワとした感情になる。畏怖に近い感覚で、自然に対峙している「崇高さ」を感じた。そしてその後の不老不死への探求からウルシャナビとの対話の緊張感。ギルガメシュの冒険譚の最後とは思えない程の静寂に包まれるこの不思議な感覚は、仏教の諸行無常も思わせる。望むものを手にいれたギルガメシュの、人間くさい傲慢さや人間という存在の小ささに気づくあの瞬間に、客席から見える駿府城公園の空間は、こんなに広かったのかと思わされる。空間をもので満たすことで満足感を得ることは簡単であるが、なにもないだだっ広い空間を、そのまま広がった空間として演出したことで、大きい物語としての神話や自然と、小さい物語としての人間を対比がこれでもかと示される。その時に初めてギルガメシュも私たち観客も、諦観のような悟りを覚える。駿府城公園の巨大な存在によって異化効果が得られたようである。
 駿府城公園というどこまでも広がっていくような広い空間、演劇祭という「祝祭」、「ギルガメシュ叙事詩」という物語、その要素が集結して「崇高」な存在を作り上げている。その「崇高」には畏怖や畏敬といった恐れとともに美しさを見出すことができる。
 「美」と「崇高」の関係性についてはカントやエドマンド・バークらによって語られてきた。「美」=「快」、「崇高」=「不快」と区別されること多いが、この「ギルガメシュ叙事詩」は自然と対峙することを強制化され、その規模に圧倒的な恐れを感じさせる。しかしその「崇高」は恐れと同時に「いやったらしい」というような魅力を感じざるを得ない。1960年代的なアングラ演劇の「美」と「不快」とはまた少し違う、自然を方法として取り入れた「美」は鑑賞した時間と場所を超えたところへの祈りに近いものを感じる。ただその祈りは、ギルガメシュとエンキドゥの関係性や、ウルシャナビとの対話に見られるように、一人と一人の人間の中に生まれる小さな関係性から普遍的で超越した観念だと観客は気付かされる。この最古の物語は、自然を媒介として一人の人間の倫理観・人生観が語られ、またこの演劇作品では駿府城公園の崇高な雰囲気と佇まいを利用して小さな物語を紡いでいく、そのような細かい作業の積み重ねにより物語を後世に繋げていくという作品の伝達まで考えを巡らせることができる。