舞台の神が顕現した。ここ何年もの間、ついぞ体験したことのない衝撃だった。観劇して丸4日以上も経つのに、あの両肩を掴まれ強く揺さぶられたしびれのような感覚がいまだに背骨にこびりついて離れてくれない。この種の革命的作品をまさか国内で愉しめようとは、思いも寄らない嬉しい誤算だった。
わざわざ静岡まで足を運んだきっかけは、『カリギュラ』観たさに他ならない。小栗旬のときも菅田将暉のときも観に行けなかった三度目のリベンジといった気持ちだった。今回もチケットの発売に気付いたときは既にキャンセル待ちになっていたが、毎日チェックしていたら幸運にも購入することができた。
作品は始まりから苛烈だった。
階段を登り切れず途中で這うように倒れ込む裸の皇帝の下、軍隊が整然と勇ましい足音を踏み鳴らし、広がっていく。世界中の誰もが第三次世界大戦の勃発に怯える今、この作品を今この現在に上演する意味を冒頭から鮮烈に投げかけてくる。
月に手が届くまで、舞台中央奥に高く伸びた一条の階段。オーケストラピットには黒い布が張られ、3つの穴からいつでもどこでも監視しているぞ、と言わんばかりにカリギュラが首を出す。そして客席の最前列でさえ、舞台装置になっている。これは利益重視の東京での上演は厳しいだろうなと容易に想像がついた。
そしてローマ三代皇帝カリギュラである。
カリギュラと言えば、一般的なイメージはエログロ暴君。国民に歓迎され、23歳の若さで皇帝の座に就いたはいいが、若さゆえの残酷さとざわつきで気に染まぬ者はすぐさま首をはねる。
大量殺戮をベルトコンベアーのように機械的に行っていく凄惨さと、それをあたかも他人事のように舞台最前部の〝観客席〟から、恋人でもある妹と肌を密着させながら眺めているカリギュラ自身。道徳やモラルや良心はもはやそこにはなく、それが許されてしまう独裁政治の恐ろしさがこのシーンだけを切り取って見ても解る。
トップレスに剥かれる女性たちが一列に台に並べられ、長い金髪が台から下に一様に吊り下げられる見たこともないエロスのシーンは、胸を露わにされてさえ神々しくもある。神話の世界だ。
カリギュラは自分の性器を股にはさみ、自分はヴィーナスだと言ってのける。アンドロギュヌスのようでもあり、ジェンダーレスのようでもある。これもまたひどく現代的だった。
このおぞましさと美しさの組み合わせこそ古来からの欧州的芸術作品の主な要素に他ならないが、この作品もしっかりそれを踏襲し、新作ながらもはや古典となっていた。
一体どんな人物がこの作品を演出しているのか、気になって早くパンフレットを繰りたい気持ちになっていたら、カーテンコールの最後に現れた演出家がうら若き美女でまた驚かされた。
カミュが描こうとした人間の本質のあさましさを、女史は確実に芸術に昇華させていた。
こんな若い女性に権限を持たせ、作品を作らせてしまうブルガリアの国立劇場の器の大きさにも感心させられた。この作品を招聘した宮城聰氏の慧眼にも礼を言いたい。
調べるとこの作品が書かれたのは第二次世界大戦下。
人間は過ちを繰り返す。
帰京の電車に揺られながら、脳裏に浮かんだのはスティーブン・キングが先週つぶやいた言葉だった。
「Putin needs to be gone before he kills us all.
One way or the other.」