劇評講座

2022年9月8日

SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2022■優秀賞■【ギルガメシュ叙事詩 】前田哲さん

カテゴリー: 2022

ことだまがひらかれるとき  ―ギルガメシュ叙事詩―

 ことばとは私たちにとって何であったのか?
 私たちはそれを回想的に思い出すことはできません。ことばを聞こうとする私たちは普段、ことばの配列そのままにその意味を取り込んでいきます。意味を帯びた言語によって物語として世界を分節し、そしてそれぞれの共同体において主観的に世界を構造化していきます。ことばは誰にでも、いつも平等に、フラットに共有され、コミュニケーションや伝達の道具として使用されているものではありません。ことばによって私たち自身が生成され、構築されて、そして変容されていく、その言語観の固有性によって住んでいる世界はひとりひとり異なるとさえいえます。
 どっちつかずで、曖昧で、とらえどころがなく、ことばにできない感情や不安、沈黙、逡巡、どうどうめぐり・・・意味を付されたことばで言うことができなかった、あるいは書くことができなかったために、不在とされてしまった何らかの思いや感情は見えなくされてしまいます。しかし、限られた意味世界の周りにはきっといつも無数に、深く、澱のように、消えることなく沈んでいるのでしょう。 

 『ギルガメシュ叙事詩』最終公演の日、演劇祭で作品を提出された四人の演出家によるクロストークがあり、「なぜ演劇は必要なのか」という問いについてそれぞれに思いが語られました。
 宮城聰さんは世界中に蔓延する孤独について、 ―赤ん坊は世界中からのぞき込まれていて、何を言っているのか探り出そうとされている。しかし言葉を覚えそれを発したとたん、その時世界から切り離されて宇宙の孤人となる。そして嘘をつくということを覚える。―と語ります。
 「言葉=意味」に侵入された個人はもはやそこから零れ落ちるものを誰も拾ってはくれなくなる。孤独を回避するために自分自身にも嘘をついて、そうではないと、精神を保持し続けようと、なんとか脆弱な足場の上に立っている状況を誰もがもっているということでしょうか。そして宮城さんは ―舞台はその崖っ淵に立った人がなんとか生き延びられる精神の先端医療である。―と。
ひとは意味、記号の世界から零れ落ちる孤独から救済されなければならない・・・
そして海外の3人の演出家たち、
ディアナ・ドブレヴァさんが ―神様は世界という舞台をつくった ―舞台は人間性を生み出す子宮である―というとき、オマール・ポラスさんが ―舞台は人間の生にとって大切な儀式のようなもの ―人間が思いを共にする最後の場所―というとき、ブレット・ベイリーさんが森に小さな炎を灯し ―日常的な人間生来の行為の一部である―というとき、人間の生の根源への回帰のために、前言語世界の安寧に再びふれ、舞台という空間と時間が人生の一部として体験的に近づけるリアルな場所であることを想い起させてくれます。
 
 古来より伝承された「書かれた世界」は世界中でさまざまな形で存在してきました。『ギルガメシュ叙事詩』は「こと」がことばとなって粘土板に刻まれています。粘土板は四千年もの時を超えてきた世界の容れものであり、ことば自体が世界の存在として封じられている。しかしそのテキストの読みだけでは封じられた世界は立ち現れません。粘土板の世界の事(こと)は、物語(意味)ではなく詩(うた)として出ていく(叙べられる)必要がありました。俳優によってことばは音として舞台へ現わされ、観客はまず日常の意味世界から「こと」の音へと導かれていきます。物語のおはなしではなく、ひとつの世界像としてひらかれ、「いま・ここ」に顕現されるのです。
 
深淵を覗き見た人について、これから皆さんにお話しします・・・
しんえんをのぞきみたひとについて、すべてをおはなしします・・・
しん・えん・を・・のぞき・・みた・・ひと・に・・
しん・し・ん・え・・し・え・え? ん?・・・
 
 テキストとしてのことばは解体され、意味を剥落させられて「こと」の音となり、堅く織り込まれた身体の生地がゆるやかにその音の振動でほぐされていくような感覚につつまれます。これから聞く物語は、普段立っているところではない場所から観ますよ、と前言語の世界に誘われ、いざなわれていくような導きの優しさを感じます。俳優らが発する声と楽器と身体言語、その境界はもはや判別できず、ことばと音のあわいのなかで神も人も動物も山も風も、音によって生き物のように踊り、暴れ、鎮められる様を呈していきます。わたしたちはことば以前の場所にいざなわれ、意味の窓からは見ることのできなかった原初の人間のありさまを舞台のいま・ここのなかに感じ、回帰することができます。このようにして粘土板という器に封じられたことばは意味を離れ、音化したひとつの世界として継承されてきたのでしょう。
 
 本居宣長に ―姿ハ似セ難ク、意ハ似セ易シ― ということばがあります。
 意には姿がないため似せやすい。意は口まねができるものである。
 姿はなぜ似せ難いのか。個人のふるまいとしてのことばが先に現れた。繰り返し、繰り返し、意味が抜け落ちるまで。無限に。そしてことばが生まれた。
 その似せ難い姿は、俳優の声、音、身体のふるまいによって、舞台上にはじめてその姿がひらかれます。人間の本来あるべきところにいざなわれ、時間的、空間的、心的に不在とされてしまったものに少し触れ、たち帰ることができる気がする・・・ことだまがひらかれるということは、そのようなことではないかと思われるのです。
 
 ことばとは私たちにとって何であったのか?
 人生の空間の一部、時間の一部として身を舞台にゆだね、共有し、かんがえ続けていきたいと思えることを、とても、とてもありがたいことだと思っています。
舞台よ、わたしたちに夢を、よきことばをもたらせ。