劇評講座

2022年9月8日

SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2022■最優秀賞■【ギルガメシュ叙事詩 】泊昌史さん

カテゴリー: 2022

 SPACの『ギルガメシュ叙事詩』は原テキスト群やそれを再編した『ラピス・ラズリ版』(以下和訳)とは異なる内容を上演することで、創造的な口承文芸のネットワークに参入した。その結果、千載不伝だった文明の起源譚に新たな相貌が浮かんだ。
 5名の懇ろな前説がシームレスに語り始めたときから、この上演全体を通してこだまする独自の「多音性」が顕れた。それぞれの語りは単語から音素へと分解され、つぎつぎと別々のリズムで輻輳し、セリフと音は自律的に混淆した。わたしたちの鼓動が先か、複数の打楽器の乱打が先か、多様な音は寛闊に一体となって城郭中に放散する。立て板が外されると、語りは男性を加えた別の5名に委嘱された。一同は画一的で身体の力を弱める「文字禍」に対して、身体性を喚起させる多音性で対抗した。それは神話を語り継ぐ、可塑的なプロセスに身を投じた態度を鮮明にする。ここで、原テキスト群や和訳の内容と比べて、上演の創造性が際立つポイントが少なくとも3つあったことを思い出そう。
 まず、聖娼シャムハトを招く指示系統がテキスト群と上演のあいだで異なっていた。原テキスト群と和訳は、狩人の父が息子に聖娼をあたらせるようギルガメシュに上奏させ、部下たる聖娼の職能を知った君主に許可される点で一致している。ところが、上演では狩人の父は、暴君を介在せずに、息子にじかに聖娼を連れて行かせる。テキストなかの彼女は暴君のスパイとして凶悪な若者を手懐ける。翻って上演では、彼女の意志でエンキドゥを暴君に対峙させる。神殿娼婦の彼女であれば、暴君が都市じゅうの娘を後宮送りにしていると云う嘆願につぶさに接したにちがいない。巫女は、狩人たちが知り得なかった、神々から託されたエンキドゥの存在意義を察知したのだ。よって、上演の聖娼は主体的に暴君の成敗を企てたとみるほうが妥当だろう。シャムハトは全身全霊を賭してエンキドゥに人情を授けた。聖娼は居酒屋でエンキドゥにパンとビールを贈与する。かれは初めて一宿一飯の「恩義」を知った。こうしてエンキドゥは、婚約者を暴君に奪われた男の訴えを聴いて、青ざめ、決起するほど惻隠の情が育ったのだ。
 だが、クーデターは失敗した!そのうえ、戦士たちは固く友情を交わし、とりまきの人びとが二人を城壁のように覆って奉祝する。対決を応援していたシャムハトは疎外された。叛逆があらわになった以上、都市に彼女の居場所はなくなってしまった。
 さて次に、テキストと上演ではフンババがエンキドゥに命乞いをする際の反応の違いが分岐している点を見よう。愛する者をほのめかされたエンキドゥは、膝を屈し、そのすきをつかれて致命傷を負う。テキスト群では、愛する者はギルガメシュを指し、凱旋後のいまわのきわでエンキドゥは狩人と聖娼を呪詛さえする。では、われらがエンキドゥは失恋をしたのだとしたら?上演では呪言は吐かれなかった。それ以上に強調すべきことは、失恋に動じる刎頸の友をギルガメシュが目撃したことにある。かれは間接的に初めて愛をまなんだのではないか。友情が相手の強さを期待する感情だとして、愛情はその反対に相手の弱さを憫察する。このような思いやりは独裁者が決して持ち得なかったものであり、既存のホモソーシャルなテキストにも不十分だった感情教育である。
 そして、帰路についたギルガメシュは、船頭のウルシャナビにおのが都市を指さし、「あれがウルクだ」と言った。これはただの演出上の変更ではない。荘厳な大都市を宿望していた暴君は、莫逆の友を亡くして栄華の虚しさを知る。運河から未完成の城壁をみたとき、それは見劣りするものだったろう。だがかれは面映ゆみながら、誇らしい気に満ちていたはずだ。英雄は語り部たるウトナピシュティムの被災体験を傾聴して、生命を教わった。テキストを読む限り、かれは都市の老人に若返りの草を毒見させる魂胆があったことが示唆されている。だが、われらが英雄は親友の死によって人情と愛をまなび、蛇に食われた草を惜しまない。ギルガメシュが都市に帰って、城壁が河と山を遮ることなく、崇高な景色が広がっていることに気がつくのもすぐのことだろう。城壁は自然を見えにくくさせるだけで、自然は世界の領野として在り続ける。夜になれば寒気がし、鳥や蟲の声も漏れ聞こえる。英雄が「おーい!」とわたしたちに向かって直示したかけ声は、わたしたちにもそのような人情があることを期待している。劇の前半で、あの狩人のはしたないくらいの自己言及によって、古代への陶酔から「いま・ここ」にグイと連れ戻されたわたしたちは、開発業者が猖獗を極める国にいる。河川は氾濫し、土石流が年々頻発している。暴君に隷属することなく、自然の崇高さをわかちあうことが、観劇だからこそ得られる、間身体的な感情であり、里程標として語り継ぐべき記憶だろう。