あれはおとぎ話のラブロマンスではなく、富姫という女性の再生譚だったのかもしれない――。
2023年5月6日、小ぬか雨のちらつく不穏な曇天の下で演じられたSPACの「天守物語」について開眼するように直感を得たのは、数日後の、奇しくも土砂降りの深夜のことだった。巧みに物語を省略・、人物にテキストにない所作を追加することにより、テキストとは異なる富姫像を現出させたのだ。
天守物語をラブロマンスとして観た時に、今回の舞台で最も違和感を覚えたのが図書之助の存在だ。人間という最も「現実的」なキャラクターであるはずなのに、清廉すぎて現実味がなかった。宮城作品特有の言動不一致で、声を女性が演じていたことも要因の一つかもしれない。元服したての少年かと思えるほど無垢な男主人公。それに対して、ヒロインである富姫の生々しさ、存在感は、一見アンバランスですらある。
この作品を整理する上で引き合いに出したいのが、今年の春に上演された、SPACの「人形の家」だ。天守物語とはかなり対照的な作品となっている。
人形の家で能を意識した演出がみられる一方、天守物語では歌舞伎を思わせる手法が使われている。例えば、ヒロインの登場シーン。前者(ノーラ)は舞台の左手からひっそりとすり足で、後者(富姫)では客席から出現した後、観衆の間を進んでいく。
ヒロインの心の動きも対照的だ。ノーラの変化が清楚な小面から般若へのそれなら、富姫はその逆。前者は男性への信頼が嫌悪に、後者は軽蔑が慈愛に転じていく様が描かれている。共通しているのは、物語の主役があくまでヒロインで、男性は主役が脱皮するための装置となっていること。いずれも物語の中で、その内面や葛藤には重きを置かれていない。
こうした「舞台装置」の上で、演出自体、富姫の心の動き・人物背景にクローズアップされている。まず音楽に着目すると、物語の前半、富姫と図書之助が初めて相対したシーンでは、比較的少ない楽器を使い、単調で暗く、冷たいリズムが刻まれる。その後、図書之助が天守に戻ってきた後は楽器の種類が増え、激しくなっていく。物語の盛り上がりに合わせているだけとも思えるが、富姫の心情、あるいは図書之助の目に映る富姫の印象を表現しているのではないだろうか。物語の序盤、富姫の周囲にはほとんど「女」しかいない。「女の園」の中では、少女の疑似恋愛めいたやりとりが続く。テキストには見られない、富姫が亀姫を自分の袖の内に包み込むシーンはその最たるものに思える。
男の生首を前に繰り広げられる残酷な悪態も、思春期の少女が男性に向ける嫌悪感を想起させる。富姫が人であった頃の悲惨な体験は、語られず、物語の「外側」に置かれている。それ故に、少なくともこの舞台では、富姫が男を知らない無垢な少女にも見えてくる。天守に初めて足を踏み入れた「男性」に、戸惑いつつも敵意を向けることなく、淡々と対応することにも筋が通るのではないか。
一転、図書之助が同胞に追われ天守へ戻ってくると、富姫は情念の虜になったように、善意の塊のような若武者と絡み合いながら、むさぼるように、情熱的な言葉を吐き出す。背後に映し出された二人の影はぴたりと重なり合い、まるで一つの生き物のように壁を這う。富姫はここで初めて、男を受け入れ、知ったのだ。
富姫のこの二面性を象徴しているのが、彼女の打ち掛けだろう。天を仰ぐ1匹の黒い鯉と、下界を見下ろす2匹の赤い鯉。同じく鯉のデザインの亀姫や桔梗の衣装が、色は同系色で、鯉の向きもそろっているのとは一線を画している。化け物と人間、天守と地上の間で葛藤を抱える彼女そのものに見えるそれは、上演中ほとんどずっと、舞台上に置かれてる。
図書之助という、善性を持つ人間の男を受け入れたことにより、富姫は人間性を取り戻したのだ。物語の最後に二人を救うのが神でも化け物でもなく、人であるのも象徴的だ。ご都合主義にも見えかねないが、ここで先に触れた歌舞伎的な演出が生きてくる。
これは「ファンタジー」なのだ。現実で傷付いた心と魂を、幻想の中で癒やし、現実へ生還するための物語。
この構造は、先に触れた人形の家と見事なまでに対照的だ。囲われた夢の世界から目を覚まし、現実に傷付き失望するノーラ。これは、前世で男に傷付けられ化け物に変じた富姫なのではないか。
傷付いた「富姫」は「ファンタジー」の中で癒やされ生まれ直し、再び「ノーラ」の「現実」に戻っていく――。そんなループが思い浮かぶ。
SPAC版「天守物語」は、傷付いた心の再生の物語なのだ。