劇評講座

2024年9月4日

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■入選■【パンソリ群唱~済州島 神の歌】澤井亨さん

カテゴリー: 2023

パンソリ群唱の舞台である、韓国の最南部にある済州島は、楕円形をした火山島で、その面積は、静岡県の約4分の1ほどである。温暖な気候から、静岡県と同じく、みかんやお茶が栽培されている。その国の最高峰、漢拏(ハルラ)山があるという点でも静岡県と同じだ。こうしたことから、「パンソリ群唱」が静岡舞台芸術公園の楕円堂で、コロナ禍がようやく落ち着いたこのタイミングで上演されたことは、いろいろな縁が積み重なって起きた奇跡だと私は思う。

済州島には、三無島という別名がある。物乞い、泥棒、門がないというのだ。だから、この劇にも、物乞い、泥棒は出てこない。門に関する話としては、チョンジュモクが出てくる。家の入口にあり、両脇に3つの穴が開いていて、3つの横長の丸太(チョンナン)をかけて置くというもの。主人がいるかいないかだけでなく、不在の時はいつ頃戻るかを、かけて置くチョンナンの数で示すというものだ。一般的に言う「門」が、外と家(うち)を区分するものだとしたら、チョンジュモクは基本的に開かれている。劇中においても、チョンジュモクに3本のチョンナンがかけられることはなく、果ては、父親であるナムソンビがオドン島に行く際に、七男のノクティセンイにより1本のチョナンは櫓にされてしまう。

いずれにせよ、いつも開かれたチョンジュモクを通して、ジョンサンおじさんがやってくるところから、劇は動き始める。三無島だから、ジョンサンおじさんは悪人ではない。その証拠に、劇後半には、ノクティセンイをヨサン夫人に会わせるという大役を担っている。とはいえ、ジョンサンおじさんがナンソンビをオドン島に行って、貿易をするように勧めなければ悲劇は起きなかったのにとも思ってしまう。でも、ジョンサンおじさんは、泥棒に代表されるところの悪人ではないのだ。いや、ヨサン夫人をチュチョン川の池につき落としたノイルジョデは、悪人だろうと指摘する方もいるだろうが、彼女は、済州島の人間ではなく、オドン島から来た。だから、ノイルジョデが悪人だとしても、済州島が三無島であるということには変わりない。

ちなみに、済州島には、もう一つの別名がある。それは三多島だ。なにが、多いかというと、石と風と女性だ。女性が多いというのは、人数というよりは、働く女性が多いという意味で、現在も多くの海女が活躍している。男性は、ナンソンビのように、女性に働かせて楽をしているというイメージだ(済州島の男性の名誉のために、あくまでイメージ)。この劇でも、太鼓等の演奏をした鼓手1人以外は、カヤグム(韓国の伝統的な弦楽器)の演奏者を含めて、舞台上にいるのはすべて女性だ。ここにも、三多島の話らしさを感じる。

題名にあるパンソリは、基本的に、歌を歌う「ソリックン」と太鼓等の演奏をする鼓手の二人で構成される、韓国の伝統芸能である。林權澤(イム・グォンテク)監督の韓国映画「西便制」(ソピョンジェ)が、芸術性を高めるためにわざと娘を失明させるという衝撃的な内容を含め、パンソリを追求する人々を詳しく描き、とても感動的であった影響か、私は、パンソリを日本文化にあえて例えるならば、平家物語を語って日本各地を巡った琵琶法師を連想する。琵琶法師は廃れたが、パンソリは国家の保護も受けて、韓国において続いていて、今も広く愛されている。

ただ、伝統を守るだけで、パンソリが続くのかという、高い芸術性を持つゆえの葛藤を常に持っているのでしょう。今回、主役だけでなく、脚色、演出、作詞作曲、音楽監督を務めたパク・インへさんは、従来の二人構成のパンソリではなく、パンソリ群唱に挑戦した。ただ、パク・インへさんを始めとするソリックンたちは、幼い頃から師匠について修行を続けてきているので、いわゆる伝統が日常習慣のように身についている。だから、今回のような創作・新作においても、自然と伝統を踏まえたものになっている。そこには不自然さはない。ちなみに、パク・インへさんによれば、パンソリの3要素は、ソリックンと鼓手に加えて、聴衆が必要だということなので、従来の二人構成という私の表現は、適切ではないかもしれない。

この劇を作るきっかけについては、劇冒頭に説明がある。コロナ禍により、公演もなくなり、パク・インへさんは、将来に対して不安ばかり増していく。そこで、その不安を忘れるためにトイレや寝室等を掃除する。突然、引っ越しの際に、母親が玄関に貼った赤札を発見する。赤札に何が書かれているかもわからない。でも、そこには神がいる。そこここに神がいる。そのことに気づき、どんな神が、どんな理由で、そこに宿ったのかという由来を突き止めようと思い立ったというわけだ。そのため、劇を通して、コロナ禍をきっかけに、今ある生活が成り立っている由来や歴史を見つめようとする姿勢が貫かれている。劇の最後には、ナムソン村らしき、かやぶき屋根の家々がソリックンたちとともに映し出される。そこには、高層ビル群には探し求められない、人と神とのつながりが息づいている。蛇口をひねれば、すぐに湯水が出てくる生活をしている我々は、その恵みに改めて感謝すべきだろう。ちょうど、公演日には、楕円堂周辺で新茶の摘み取りが行われていた。素晴らしい歌声を素晴らしい環境で楽しむことができた、素晴らしいひと時だった。関係者一同に深く感謝する。