劇評講座

2024年9月4日

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■優秀賞■【ハムレット(どうしても!】後藤 展維さん

カテゴリー: 2023

戯曲『ハムレット』とは何か

テクストに解説を加える注釈は作品の研究において重要な役割を果たすが、『ハムレット(どうしても!)』において、こうした注釈という学問の方法はそのまま、鑑賞に堪え得るナラティブとして落とし込まれている。これは、戯曲の台詞を編んだオリヴィエ・ピィが、あくまで“翻案”ではなく“翻訳”としてクレジットされている姿勢からも明らかである。

概して「注釈劇」という即席の造語が発想できるほど、劇中で繰り広げられる様々な議論や先行思想の引用は、本作のメタフィクション要素における中核を成す。特に、作品の貌とも言える有名な某台詞に焦点を当てた場合、各言語による翻訳の差異が、舞台上では見過ごすことのできない深刻な誤謬となる。なぜならば、『ハムレット』に焦点を置いた古今あらゆる主張の論拠は、常に作品のテクストへと最大限依拠しなければならず、したがって、肝心のテクストそのものには、絶対的な正確性が必要とされるためである。

しかしながら、本作を通じて――むしろ皮肉とユーモアを積極的に交えながら痛烈に突き付けられている現実は、私たちが論じる都度に典拠としなければならない『ハムレット』のテクスト自体が、その正確性に根本的な危うさを孕んでいるという状況である。たとえば、かつて最古と見做されていた四折版(Q1)よりも古い版が発見されたと明かす序盤の大暴露は、恐らく作品全体を構成する大きな問題意識に対して、その一翼を担っている。

劇中に繰り返し引用されたヴィトゲンシュタイン(実証主義)やドイツ現象学など、これまで『ハムレット』に典拠を示してきた哲学分野や関連する研究の多くは、こうした実資料の更新を前にほぼ無力である。つまり、四折版以降の本文解釈に寄与した諸々の主義や思想及び信条は、原書テクストの絶対的な正確性が瓦解した瞬間からその正当性を等しく剝奪され、互いに優劣無く均される。舞台上で繰り広げられる注釈行為全般が、明確な皮肉を込めた喜劇やユーモアの文脈で演じられている理由には、以上の作為が垣間見える。言語の不完全性がもたらす脅威とは、それほどまでに重い。

それでは、凡そ数百年に渡り繰り返し上演されてきたにもかかわらず、未だ誰一人として物語や台詞の真相を正確に知り得ていない戯曲『ハムレット』とは、いったい“何”なのか。この漠然とした問いに対し、本作はさらに深い層に位置するメタフィクション要素を用いることによって回答している。

――私たち観客が舞台を見る側ではなく、舞台から見られる側になることで、虚構と現実の位置が逆転する。一聞する限りでは修辞法(レトリック)のようにも受け取れるこの提案は、舞台の冒頭、演劇の担う社会的役割を問い直す試みの一環として役者の口から告げられたのち、物語の終盤、王妃やクローディアスの死に際において実践される。

今作が『メタ・ハムレット』として最も特異的な色彩を放つ点は、やはり、虚構の存在であるはずの登場人物そのものが自我〈エゴ〉を持ち、自らの言葉によって独白をする深遠な展開にあると思う。なかでも極めて印象に焼き付くのは、王妃ガートルードの言葉である。

彼女の死に際の、半ば訴えに近い独白が示唆している通り、『ハムレット』における王妃とは、初めからガートルード以外の何者でもなかった。先王が死に、クローディアスと再婚し、ハムレットの策略を意図せず被り命を落とす。長い年月を経てもなお、彼女はそうした在り方を何ひとつ変えていない。

むしろ変化しているのは、『ハムレット』を鑑賞し、批評し、論じる人間の属していた価値観や主義思想、信条にほかならず、それらは常に時代の当事者である。すなわち、今日までに『ハムレット』が“何”であるのかを規定していたのは、そもそも私たち観客側だったという事実に、ここで改めて気づかされる。

そして、舞台から見られる観客とは、詰まるところこの状態を意味する。ガートルードという虚構の存在が自我を持ち、戯曲の台詞でも役者の即興でもない第三の言葉を語り出すことで、批評対象が舞台上から観客席へと移行し、虚構と現実の立場が逆転する。初演当時から同一存在であるはずの彼女にとっては、上演の度に異なる役割や人格をガートルードに求め続けて来た私たち鑑賞者(読み手)の存在やそれらを形成する実社会こそがフィクションであり、いずれも優先して批評されなければならない客体である。また、以上の事柄は、その他のあらゆる登場人物たちに関しても例外ではない。

戯曲『ハムレット』のテクストには、何故これほどまでに多くの注釈が過剰なほど付随しているのか。それは、戯曲自体の不可解さや未成熟さというよりも、戯曲が上演されて来た社会背景の様相が、夥しく存在していたことに根深い事由があると言える。登場人物たちの台詞や言動に或る特定の動機を与えている張本人は、いかなる時代であっても、そのときどきに観客が背後で抱えていた社会的・思想主義的実状そのものである。