劇評講座

2024年9月4日

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■優秀賞■【天守物語】河口雀零さん

カテゴリー: 2023

虚構世界ではなく可能世界としての幻想世界

天守閣内に暮らす妖怪、富姫のもとを、同じく妖怪で妹分である亀姫が訪ねるところから物語ははじまる。富姫や亀姫に対して設定上「妖怪」という言葉が使われてはいるが、その言葉がもつおどろおどろしさとは裏腹に、舞台上の彼女たちが放つのは華やかな雰囲気である。鯉のぼりを象った衣装に身を包み、流麗な振り付けで舞い踊る。

彼女らが暮らす天守閣に足を踏み入れることになる人間が、図書之助である。彼は城主のお気に入りの鷹を逃がしてしまった罪を償うために、妖怪の呪いにより入ったら最後、二度と生きて帰ることができないという噂がある天守閣へとおもむく。つまり図書之助は、鷹を逃がした罰として死罪となるか、それとも天守閣に行って妖怪に呪われて死ぬか、どちらかの究極の選択を迫られたのであった。どうせ死ぬならこの世のものではないものを一目見てから、という思いが図書之助にはあったのだろう。彼はおそるおそる、富姫たちのいる天守閣に足を踏み入れる。

人間が妖怪に呪われてしまって終わり、という筋書きではもちろんない。妖怪という人ならざるものに触れた図書之助は、人でもない鷹一匹を逃がした程度の罪で殺されるという、武士特有の縦社会の掟に疑問を抱く。そうして図書之助は次第に、人の世を離れ、妖怪たちと同じ世界に引き込まれていく。それと同時に、富姫の妖艶さにも惹かれていく。

この物語の結末に、少なくない人が拍子抜けしてしまうかもしれない。図書之助と富姫は、視覚を失ってしまうという悲劇的な結末を迎えそうになる。しかし終幕の直前、桃六という超越的な存在――富姫や亀姫たち妖怪という、人間にとってみればすでに超越的な存在をもってしても、さらに上に位置するような――が突如として現れ、二人は視覚を取り戻し、輝かしい未来が示唆される。つまり、「一件落着」のようなかたちで終わってしまうのである。そこからのもうひとひねりがあるかもと期待していたのだが、その期待は見事に裏切られてしまった。よくある言葉をそのまま使えば、「デウス・エクス・マキナ」として批判されかねない演出であろう(泉鏡花による原作がその通りだから、と言ってしまえばそれまでであるが)。

しかしそうやって一蹴してしまうのでは芸がないし何より面白くないので、ここに少し考察を加えることにしたい。そこで、比較対象としてSPACでの前回の公演『人形の家』をあげてみたい。

『人形の家』では、亭主=父親=男性という「大黒柱」を中心とした「家庭」という空間内で暮らしていたノーラが、女性の権利が制限されていたことに気づき、家庭の外へと出ていく。そして今回の『天守物語』では、武士社会特有の封建制度の内側で暮らしていた図書之助が、富姫たち妖怪という「人ならざるもの」との出会いを通して縦社会の掟に疑問を抱き、「ここではないどこか」へと開かれていく。以上のように、ある秩序内で暮らしていた者が、その秩序のほころびや理不尽さに気づくことで外部に開かれるという点で、二つの作品は共通している。

二つのちがいをあげるとするならば、そこに「現実世界」が描かれているかどうか、ということだろうか。もちろん、「フィクション作品なのだから、私たちが暮らす現実世界とのつながりはない」と言ってしまうことも可能である。しかし『人形の家』は明らかに現実世界のジェンダー観を基にして作られており、最終シーンでノーラが家庭を出ていくとき、観客は少なからず舞台の仮想世界と、自分の生きる現実世界とのつながりを意識することだろう。だが『天守物語』は、神的・霊的な「外部」と接することで幻想世界に引き込まれた図書之助が、現実世界に引き戻されることなく物語が終了している。妖怪という非科学的なものが住むという意味で、虚構世界のまま終了すると言い換えてよいだろう。

しかしこれを、現実の社会問題の排除として受け止めてはいけない。というのも、現実世界から断絶されたものとして物語を描くことでこそ、フィクションの世界と現実世界との相互浸透(小玉, 2021)が起こることがあるのではないかと考えられるからである。つまり『天守物語』は、すでに成長を終えて閉塞感が漂う現代日本社会における劇的な変化、〈革命〉への端緒として捉えることができるのではないか、と。

ここで、本作が「デウス・エクス・マキナ」で終わりを迎える――むしろ、終わりを迎えざるを得ない――ことの意味も、なんとなく見えてくる。現在の思考枠組みでは到底たどり着けない〈革命〉を志向するには、私たちの想像力を大きく超え出る何かを頼るしかない(大澤, 2016)。その「何か」が本作では、桃六という超越的な存在であった。

そう考えれば、本作の衣装・舞台美術に取り入れられた特徴的な意匠も意味を持ってくる。富姫とその周りで舞い踊っていた者たちの衣装には、鯉のぼりを模したデザインが盛り込まれている。そして天守閣に供えられた「獅子頭」は、原作に倣ってそう呼ばれてはいるが、そのデザインは明らかに東洋的な竜を模している。図書之助が武士社会の掟から解放されることは、滝を登った鯉が竜に変化するという非現実的な伝説ほど大きなインパクトを持つものであったということだろう。

現代においてなにがしかの変化が必要であるということは誰もが意識しているが、しかし具体的にその変化がどのようなものなのかは、誰も思い描くことができない。それを現実にするには、鯉が竜に化わってしまうような、生物的種として全く異なるものに変容するほどの、私たちの想像力を大きく超え出るほどの、〈革命〉が必要なのだ。〈革命〉の具体的なかたちは示されなくとも、それが起こる余地だけは残されている。そうして私たちは結局、「そうなるかもしれない」未来としての可能世界を求めて、次なるフィクション作品へと向かうことになる。

 

〈参考文献〉

大澤真幸(2016)『可能なる革命』太田出版。
小玉重夫(2021)『可能世界としての学校』広瀬裕子編著『カリキュラム・学校・統治の理論:ポストグローバル化時代の教育の枠組み』世織書房。