劇評講座

2025年5月17日

SPAC秋→春のシーズン2023-2024■優秀賞■【伊豆の踊子】寺尾眞紀さん

カテゴリー: 2023

冒頭、出演者全員が横並び一列になって『伊豆序説』を色とりどりの声で語ってゆく。それぞれの声は公平に響く。物語と登場人物をいったんひとつの塊にしてから、等分に切り分けて並べたようだ。旅が始まると、運命は別れ境遇は異なっていく。けれど終盤でもう一度、この「それぞれの公平な重さ」を大音量で突きつけられることになる。
数えで二十歳の学生である主人公は、一人旅の孤独を抱えながらも先々で下にも置かぬ扱いを受ける。茶店では、学生だけが暖かい火の近くに通される。雨に降られ濡れるのは、旅芸人一座の女性の方が辛かっただろうに。険しい坂を一番乗りに登れるのは、彼が若く軽装だからだ。踊り子の背負う太鼓が想像より重いことに驚くが、自分の荷が軽いことには思い至らない。彼が善良で繊細な心の持ち主であることは疑いようがないので、原作のこれら小さな鈍感さは、ちくちくと棘のように気になっていた。
舞台は大きな段差で上下に分断されている。「上」の旅館の明るく広々とした学生の居室と、「下」の片隅の木賃宿で身を寄せ合う旅芸人たちの冷たく固い寝床は、別世界だ。
踊り子は、自らの境遇を僻むこともなく学生にあれこれと尽くす。学生は踊り子の見かけを裏切る無邪気さに「子どもなんだ」と安堵する。実は学生自身の世間との関わり方も、少々子どもっぽい。小説は一般に「恋物語」と呼ばれるが、二人の関係は恋未満に見える。原作の最後の不器用で曖昧な決着のつけ方、ぐずぐずとした情けなさは、映画の二枚目俳優の凛々しさとは正反対だが、その不完全さが物語の真の魅力と感じる。
多田淳之介版『伊豆の踊り子』は、小説とも映画とも異なる解釈と方法で物語を終わらせている。それは、まだ十九歳だった「私」が、心の底で望んでいた本来の結末のように見えた。
小説(および映画のいくつか)には、大きな棘もある。
客の中には、踊り子を金銭で買える性的対象として見る者もいる。「生娘」という呼び方、これは当人の関わらぬところで貼られる危険なレッテルだ。一座は、薫の若さと容姿を商売上利用しつつ、その身は守りたいというジレンマに苦しんでいる。兄、栄吉の「妹だけはこの境遇から救いたい」という思いは切実だ。対して学生は踊り子の精神年齢に安心して、一座が連れている子犬でも可愛がるような快さを覚えている。薫の身を案じて悪夢にうなされるが、彼女を救いたいというより自分を癒すイメージを失いたくないのであって、好色な視線を向ける客の男たちと全く反対側にいる、とも言い切れない。原作では髪型や装いが踊り子を大人びて蠱惑的に見せており、それが「私」を、そして男たちを惹きつける。今日の旅芸人一座のいでたちは、時代を跨いだ歌舞伎者めいた派手さが楽しい。不思議な統一感はあるが個性はバラバラだ。薫の衣装もその踊りも媚びたアイドル風ではなく、それが彼女を守っていた。
緊張して要領を得ない返事をしたり、お茶をこぼしたりする様子から、薫は幼さ拙さが目立つ少女、とミスリードされがちだ。しかし彼女は明らかに学生より目端が利いており、好奇心が強く、物語を聴くことに飢えて情熱を見せる。無垢=知性が低い、であるはずはないが、そうであれば御し易い。男たちが生娘=無垢のイメージにこだわるのは、それが理由だろう。舞台の薫は、無垢であっても利発で活発な少女だった。学生も、五目並べで彼女に楽勝できないことを呑気に「不思議」などと考えるべきではないのだ。
もうひとつの大きな棘は、病床で明日をも知れない酌婦のお清。踊り子の最悪の近い将来になり得たかもしれない、合わせ鏡のような少女は『伊豆の踊り子』の原作には登場しない。いくつかの映画の脚色で加えられた、別の川端作品『温泉宿』の登場人物だ。芸人たちは血の通った人間で、その旅は牧歌的に見えても一歩間違えば危ういものだ。お清の死の挿話は、それを思い出させる。彼らは伊豆の自然のように「観光客の視界を美しく流れてゆく風景」ではない。
病床を見舞った薫に、お清は力なく微笑むが耐えきれず一瞬泣き顔になるのが痛々しい。が、その後お清は布団から抜け出し、本物の笑顔になって足取り軽く舞台を去る。彼女の命が尽きて苦しみのないあの世に行った、と受け取れるが、同時に、理不尽な役柄を脱ぎ捨てて、文字通り次のステージに向かったようにも見える。実際、観客は違うステージの「お清ちゃん」に何度も出会うのだ。
お清を看取ってくれるのが、お咲さん。枕元での、このままじゃ許さないよと言わんばかりの厳しい表情があってこそ、後半の爆発的な明るさと弾け方が活きる。お咲は、お清と同じく『温泉宿』の登場人物のひとりであり、「生まれながらの酌婦」と烙印を押された存在だ。この烙印は、踊り子が「無垢で御し易い生娘」と見られるのと同じ理由でフェアでない。だから、新しい「お咲さん」の造形には必然性がある。Born This Wayの立ち位置は、独立していて観客に愛されても媚びへつらいは無しということだ。旅芸人を蔑むヘイトを跳ね返し、リベンジを果たす破壊力があった。原作で道中、疲れ渇いた旅の一行が泉を見つけた時、女の後は汚いから、と不浄な彼女らは「清潔な」学生が真っ先に飲むまで待たされる。誰が優先されるべきか。ここでもお咲さんが一刀両断に解決してくれた。
栄吉は、役者を諦め芸人として生きる運命に甘んじているが、一高生と対等に話せる知性を備えている。「土地の人は(誠実な観客として物足りなく)おもしろくない」と悲しむ彼に、二階から心付けを投げる学生の無神経さは残酷だ。地面に落ちたお捻りを栄吉が屈んで拾うとき、彼には学生には見えない「上下」が見えている。永吉の悔しさは棘のひとつだったが、劇場の観客は一座の芸に終始歓声と拍手を送っていた。舞台+観客の再現が、今は遠くにいる彼に声援を届けたようだった。
物語に脇役はあるが、現実の世界に「その他の人々」はいない。見過ごされる人たち、見落とされる出来事は「存在しなかった人」「起こらなかった出来事」では、決してない。
百合子は原作では影が薄い。彼女は一座でひとり血縁がなく「孤児根性」に悩む学生より孤独な境遇だったかもしれない上に、人見知りだ。その百合子のラップは、一番といってよいサプライズだった。まさかの登場から最高潮の盛り上がりまで、舞台と客席を結びつける気持ちの良い強引さがあった。彼女に見合った舞台が派手過ぎるほど派手に用意されていたことに、自分も救われるような気持ちで喝采した人は少なくないと思う。
デフォルメされたショー的演出の中から、リアルが溢れ出たと感じたのが、栄吉と千代子の赤ん坊の四十九日の場。一座は皆、この小さな家族の死を常に気に病んでいた。小説には「私」と一行が別れた後の事は描かれていないが、舞台上で、法要はきちんと行われた。手を合わせた千代子が泣き崩れた瞬間、悲しみが本物になり感情が決壊するきっかけになって、泣けてしまい困った。千代子は早産の後ずっと具合が悪く、皆が遊んでいる時も傍でそっと横になっていたのだった。ショーの振り切れた明るさとの、控えめで遠慮がちな対比だった。
川端康成は、『伊豆の踊り子』の人気への戸惑いや映画化にあたっての思いを書き残している。映画の美化された部分や実際の顛末が正直に語られていて、誠実さに驚く。
「私」と踊り子、旅芸人一座との結びつきは、心の底からの強いものだった。けれどそれは一瞬だった。一座は故郷の大島で学生の訪れを待つ便りを寄こしたが、再会は実現しない。旅をしていても一座の社会は閉ざされていて、旅の間、学生は彼らにとっての「窓」だった。旅は終わり、窓は二度と開くことはなかったのだ。
果たせなかった全てを叶えたような多幸感に満ちたラストでは、あの子も、あの人も、笑っている。夢なのかもしれない。それでも、ひとりひとりの面影を探し見つけるたびに、たまらなく嬉しかった。