オクタヴィアンの言葉は奪い去られて…
「言葉ってすごいね」
元帥夫人との甘美な一夜を思い起こしながら、オクタヴィアンはそう呟く。人妻との快楽に身を投じた年端も行かないこの青年は、明け方、「君と僕」という表現に幾ばくかの哲学的な考察を与えようとする。ひとまわりは年上だろう夫人の前で、何とか背伸びをしようとする青年に対して、夫人は、「君」と「僕」の間にある「と」に全てが込められているのよ、と余裕たっぷりに優しく応えてみせる――
SPAC版《ばらの騎士》は、ホフマンスタールとリヒャルト・シュトラウスによるオペラ《ばらの騎士》を原作とし、そのリブレットに最大限のリスペクトを寄せつつも、ところどころに独自のアレンジが加えられる。このシーンも、オペラ版であれば、愉悦的な音楽を伴うオクタヴィアンの自己満足的なモノローグに対して、元帥夫人が「あなたは私の坊や、あなたは私の宝物よ!Du bist mein Bub, du bist mein Schatz!」とけむに巻くのだが、SPAC版では物音ひとつしない静寂に包まれたダイアローグとなり、オクタヴィアンの「言葉ってすごいね」へと収斂する。劇の冒頭部分で示されたこのリブレットの何気ないアレンジこそ、SPAC版《ばらの騎士》のマニフェストに他ならない。
オペラにも造詣が深い宮城氏が、《ばらの騎士》というオペラ史上の金字塔をあえて演劇作品へとアダプテーションすることで、劇中の様々な言葉が“顕わに”なっていった。とりわけ、オペラでは重唱として作曲され、ともすればシュトラウスの多声的で色彩的な音楽に言葉が溺れてしまいかねない1幕後半部および3幕終末部分において、その効果は絶大であった。元帥夫人とゾフィーという、2人の対照的な女性の葛藤が、「言葉でしか生み出せない壮大さ」(宮城氏のプログラムノートによる)へと昇華された。
これだけでもアダプテーションの成果として目覚しいものであるが、さらに驚くべきは、言葉に重きを置くにも関わらず、《ばらの騎士》というオペラの持つ音楽的な遊戯性がむしろ際立っているという点だ。例えば1幕、元帥夫人の執事が発する「ソロリ」「ギー」といったオノマトペは、言葉の音楽性を意識させる原始的な仕掛けとして機能する。2幕、オペラ版においてオックスが皮肉たっぷりにdie Fräuleinと連呼する部分は、「こっこっこっここの人は!」と独特な節回しによってオマージュされる。3幕、オペラでは合唱団が一斉にDer Skandalと歌う部分は、舞台の上手・下手にしつらえられた音楽ブースから発せられる「スキャンダル」という言葉のミニマルミュージック的重なりへと作り変えられる。こうした、いわば“言葉による音楽的遊戯”が全編にわたって様々な形で埋め込まれているのである。
これらの言葉の遊戯が成り立つのは、根本氏の担当する音楽が、オペラ版の音楽を一切使わないという禁欲的なルールのもとで創作されたということも大きい。強固な和声感とライトモティーフの網目によって構築されたシュトラウスの音楽とは対照的に、根本氏は、メトロノームや打楽器、そして人間の声といったプリミティヴな音を組み合せながら、半ば即興的にシーンを彩ってゆく。フライヤーに記された「練馬のシュトラウス」という氏のキャッチコピーは、ある意味、肩透かしというわけだが、それは紛れもなく、根本氏が宮城氏の台本と対峙した結果であろう。宮城氏が、ホフマンスタールの言葉を“顕わに”するプロセスは、シュトラウスの音楽を消し去ることと決して同義ではない。むしろ、その音楽性を、言葉によってアナロジカルに置き換えてゆくクリエイティブな作業であった。根本氏はそのことを理解したうえで、言葉が有する音楽的な磁場を、原初的な音や民族色の強い音楽(例えば地元静岡のノーエ節も登場する)によって巧みに組み上げていったのだ。
オクタヴィアンがふと呟く「言葉ってすごいね」が、全編を通じて通奏低音として機能しているのは、音楽にまで転化しうる言葉のポテンシャルに、劇団一丸となって徹底的なアプローチを試みたことによるだろう。しかし一方で、当のオクタヴィアンが、最も言葉を“奪われた”登場人物であることにも注意したい。1幕、オックスが女装したオクタヴィアンに言い寄るシーン。2幕、銀のばらをオクタヴィアンがゾフィーに献呈するシーン。3幕、元帥夫人とゾフィーの2人を前にオクタヴィアンが逡巡するシーン。オペラでは、これらの場面の重唱に、オクタヴィアンの内面を語る歌詞が様々に与えられているのだが、SPAC版ではそれらが大幅にそぎ落とされているのだ。元帥夫人とゾフィーの言葉が次々と“顕わに”なるのに対して、主人公ともいえるオクタヴィアンの内面がなかなか見えてこないのは不公平だ、といささか不満に思っていたのだが、それは、最後のシーンに対するあまりに見事な伏線であった。
ゾフィーと結ばれたオクタヴィアンが彼女に語る愛の言葉。それは、オクタヴィアン自身からは発せられない。上手・下手に控える十数名の劇団員たち(それまでは舞台上で何らかのキャラクターを演じていた役者たち)が、断片的な愛の言葉をミニマルミュージックのように投げかけてゆく。舞台上のゾフィーとオクタヴィアンは手を繋いで互いを見つめあっているのに、オクタヴィアンが発すべき愛の言葉は、まったく別の多数の身体によって空間化される。冒頭で「言葉ってすごいね」と呟いたオクタヴィアンから、まさにその言葉が奪い去られ、最後には愛の言葉すら自ら語れなくなる。この皮肉な仕掛けが、言葉というものに徹底的に肉薄しようとしたSPAC版《ばらの騎士》の帰結だったのだ。