劇評講座

2025年5月17日

SPAC秋→春のシーズン2023-2024■入選■【お艶の恋】寺尾眞紀さん

カテゴリー: 2023

殺されたのは誰か

彼女たちは美しい怪物のようだ。谷崎潤一郎の描く女性は、春琴にしてもナオミにしても、男性の視線によって磨かれていく。完成した「作品」は、とても人工的だ。並外れた美と悪魔的な支配力、そんな鋳型に収まる人間の女は、本当にいるのだろうか。ファム・ファタル、と呼ばれる女性たちは、どこからか湧いてくる超自然の力に溢れて自由奔放だ。彼女らは、女をコントロールできないことに絶望した男に殺される。それは越境してしまった女性への罰だ。または立場を奪われた男の方がコントロールを放棄して、その存在を自ら失くす。ファム・ファタルに選べるのは、怪物になるか、殺されるか、だ。石神夏希氏の演出は、その身動きの取れない二者択一からお艶を解放した。
熱帯の河に浮かぶ小舟、生い茂る巨大な南国の植物。聞こえてくるのは甲高い鳥の鳴き声。原作を読んだ者には全く予想外の舞台装置で、まず先入観が粉微塵にされる。意味を持たないはずの鸚鵡の鳴き声は、少しづつ人間の発声に変わってゆき、雪の夜の江戸を語り始める。上演前の解説で、「物語の登場人物たちの魂が南米に流れ付き、彼の地の役者たちに上演される」という設定を演出家から聞いた。これを聞かなければ、冒頭かなり混乱していたとは思うが、何も知らずに思い切り混乱を楽しんでみたかったという思いも、少々残った。
小舟には役者たちが乗っている。出番が来るまで居眠りしている者もある。彼らは単に本日の芝居というルーティンをこなしているのであって、物語そのものには無関心なのかもしれない。この劇中劇の「他人事」感と、物語の展開の過剰な激しさが対照的だ。鸚鵡返しという言葉があるくらいだから、達者な語りの鸚鵡の「座長」も、果たしてどれだけこの悲劇を理解しているのか。役者たちも油断すると魔法が解けて鳥の姿に戻ってしまい、飛んでいってしまいそうだ。これから舞台で起こることを丸呑みで信じてはいけない、と小声で耳打ちされたような気がした。
しかも劇が始まるや否や、クライマックスのはずの「お艶殺し」はあっさり果たされてしまう。設定に理解が追いつかないまま、一番の見せ場は終わってしまった。
この辺りで、この舞台の楽しみ方に気づき初める。倒叙法とは少し違う。なぜなら「お艶殺しの場」は、これ見よがしに芝居がかって様式的なものだった。これは序の口ですよ、というメッセージである。なぜ劇中劇という複雑な構成なのか。現実と夢や妄想、登場人物たちは場面ごとにどの階層で生きているのか、それをパズルを解くように楽しめばよいのだろう。
原作の衣装の描写は、「緋鹿子の長襦袢」「紬のやたら縞」「黒繻子の襟」など、生地や色まで具体的で目に浮かぶようだ。眼前の舞台では、ラテン風の派手なフリルやマゼンタのレースが揺れている。漢字が音として発声され一度空中で響いてから、全く違った色と形になって目に映り脳に届く、という過程が繰り返される。聞こえている言葉と見ているものが違う、けれど起きている事象は本質的に同じなので、頭の中で辻褄を合わせるのが忙しい。アクロバティックな言葉の扱い方で、不思議な体験だ。
「座敷」「障子」「行燈」といった言葉の風情も、マラカスのリズムにのって歪に小舟の上に積まれていく。この「小舟」のみは、清次の営む船宿の小舟が、この地まで流れ着いたのだろう。お艶との行く末の転機となるその日に新助が乗りこんだ小舟は、不安定な運命の象徴だ。彼らがさらに危なっかしく船縁に立ってよろめく時、どうか落ちないように、と観客も思わず手を握りしめてしまう。
2022年に石神氏演出の『弱法師』を観た。生と死の結界としての場所、身体的な危うい不安定さ、言葉の描写を裏切る見た目、ループする時間が、非常に魅力的だった。その魅力と、ところどころで再会できて嬉しい。
一番緊迫するはずの「殺しの場」では、役者たちは楽しげに踊り出す。肝心のお艶は、ここぞという場面ほど人ごとのようにくつろいでいる風情だ。彼女は今、役者に憑依したお艶自身なのか、お艶役を出番待ちの南米の役者なのか、劇中劇の役を休憩中の俳優なのか、表情を読み取ろうとするけれど、うかがい知れない。「清純な乙女」の次の段階が、なぜ一足飛びに「汚れた娼婦」や「人殺しの毒婦」なのだろう。(でなければ、「忍耐強く献身的な母親」だが、「母」は性別を失っている)お艶は、妖婦やら毒婦やらの型から抜け出して、鬢付け油で固めた日本髪ときつく締めた帯を脱ぎ捨て、くつろいでいるのではないか。一方的に「愛される」か「汚される」しかなくて、どちらも嫌なら、後は役を降りてしまうしかない。江戸時代の芸者を生きるお艶が、気軽にシャワーで汗を流す開放感と爽快感は格別だった。
新助がお艶の美貌に劣らぬ美青年である、ということは原作でも繰り返し強調される。舞台上の新助も、お艶と二人、本当に「芝居のよう」だったが、彼を女性が演じる意味は表面的なものだけではないだろう。恋人たちの場は、物語において重要である。様式的な美しさを保ちながらも、凝視するのが憚られるような生々しさがあり、直接的な熱が感じられて、どぎまぎしてしまった。この高温はなんだろう。裸の俳優を見た時もそんな感情は湧かなかった。もし男女の俳優が演じていたら、微妙な距離感が生じたり、男女の強さの優劣の刷り込みのようなものが、その温度を下げてしまったかもしれない。ジェンダー問題をマニュアルのように芸術に当てはめることには、全く賛成しない。けれど、女性の演出家と女性の俳優が作り出す「きちんとわかった上での」高い温度というものが確かにあるのだな、とあらためて思った。
新助は、ひとり疑心暗鬼で不安げで、常に迷っている。悪役とはいえ、清助、三太、徳兵衛ら他の男性陣に迷いはない。恋人に求めるだけでなく自らの貞操を大切と考え、重要な局面ではパートナーの決断に従う新助は「封建的社会に生きる女性」にありがちな義務を担わされている。従来あるべき立ち位置が逆転したからこそ、『お艶殺し』は扇情的でドラマチックな「芝居じみた物語」となって、人々は熱狂して受け入れたのだろう。劇中劇で殺されたお艶は、芝居が終わると笑顔で素に戻る。彼女は生き延びたのだ。花形役者のはずの新助は、途中退場したあと、代役に取って代わられたまま消えてしまう。本当に殺されたのは新助だったのではないか。新助を女性が演じたことで、「女性性を超越した罰により舞台で殺された女」と「存在を消された男を演じた女」、二人の女性が殺されたことになる。
マジック・リアリズムに影響されたという石神氏の言葉を観劇後に聞いて、とても納得がいった。ガルシア・マルケスだからラテン・アメリカという説明が強引なこじつけに思えなかったのは、冒頭の殺しの場で『予告された殺人の……』というタイトルが自然と頭に浮かんでしまったからだ。表面的な設定の小道具ではなく、本質的にマジック・リアリズムの舞台だったと思う。
やはり『お艶の恋』より『お艶殺し』がふさわしい。ひといきれを感じられるような小さな劇場でも、ぜひ観てみたかった。