劇評講座

2025年5月17日

SPAC秋→春のシーズン2023-2024■入選■【ばらの騎士】小長谷建夫さん

カテゴリー: 2023

ドタバタ喜劇の終わりは

―我々は現在という瞬間の上にだけ立って生きている。しかもその脚下の現在はただちに消えて過去となる。次の瞬間もまた次もそのとおり。丁度崩れやすい砂の斜面に立つ旅人の足もとが一足ごと崩れ去るように―
SPACの「ばらの騎士」を観劇しながら、突然中島敦の「悟浄出世」の中で、妖怪の吐いた言葉を思い出したのは、ホーフマンスタールによる本作が、人間にとって、抗いようのない時の流れをテーマに、あるいはテーマの一つにしていたからである。
尤も、芝居の中で時の流れは、もっぱら容色の衰えや人の心の移ろいとして登場してくるから、大河の深い底での妖怪の呟きと、元帥閣下の奥方の独り言とがイコールであるはずはない……はずではないが、人間を含めあらゆる生物が、いやあらゆる事象が、不思議な時の流れの中に存在していることを思えば、一体時とは何なのだと考えざるを得ない。
時を自由に行き来することができたなら、いや自在に扱うことができたなら、できないことは分かり切っているが、誰もが一度くらいは思いを凝らしたことではないだろうか。
いや時を自在に扱えるものがあった。芝居である。暗転によって、幕の開閉によって、あるいは小さな効果音一つによって、時を縮め、時を戻し、時を止めることもできる。
先を急ぎ過ぎたようだ。まずは宮城聰、寺内亜矢子演出の「ばらの騎士」をじっくりと鑑賞することとしよう。
幕開けは元帥奥方の寝室である。冒頭から、不倫の仲にある奥方と貴公子オクタヴィアンとの甘ったるく濃密な閨話が続く。
奥方への恋心に一途に燃えるオクタヴィアン。その若さと危うさ。それを楽しむ奥方の手練れたあしらい。奥方のふと漏らした言葉から、奥方の道ならぬ恋は一度だけではないことさえ覗える。それにしても、二人の恋は少々無防備すぎないか。観客はついついこの罪深い二人のことを心配までさせられるのだ。
不作法にも寝室まで闖入してくる奥方の親戚のオックス男爵に対し、女装してその場を誤魔化すオクタヴィアン。舞台は喜劇の様相を呈して進む。奥方から、オックス男爵の花嫁に結納代わりの銀のバラを手渡す役割を命ぜられたオクタヴィアンは、ファーニナル家に赴き、そこで花嫁のゾフィーと会い、一目で新たな恋に落ちる。その朝、奥方と不滅の愛と誓ったばかりというのに、この無節操ぶりだ。すべては時の流れのなせるわざ…。いや、まさに電光石火。時の介在さえ許せぬ人の心の移ろいの速さと言うべきか。
オックス男爵のファーニナル家における傍若無人ぶりから、第二のテーマと言うべき階級制度の残酷さ、滑稽さ、男女の不条理な関係などが赤裸々にされていく。オックス男爵は、成り上がり貴族の父親の弱味を突き、結納金と娘を手に入れようとする。そのあまりの傲慢、非礼ぶりに、娘のゾフィーは絶望してオクタヴィアンに助けを求める。
オクタヴィアンと男爵の決闘の後、場面は変わり、女装したオクタヴィアンが美人局まがいに男爵の下劣な正体を暴き、婚約は見事破談となる。最後に奥方が登場。恋人の座を娘に譲り若い二人は結ばれ大団円となる。
さて、このホーフマンスタールのよるオペラの台本は、作曲家リヒャルト・シュトラウスとの密なる協議によって出来上がったものという。確かに多くの登場者による会話の輻輳や、何度も繰り返されるセリフなどは、歌声や楽器の効果、二重唱や三重唱、リフレインの技法等の存在が前提になっているように思える。宮城監督はしかし、その音楽によって埋もれてしまった台本の会話の面白さや言葉が生み出す深みを引き出そうと、シュトラウスの音楽なしの芝居としたという。シュトラウスがなくとも、音楽は宮城演劇にとって欠くべからざるものであるから、観劇者は練馬のシュトラウスこと根本卓也の本芝居独自の音楽や歌に身を委ねることになる。
ではシュトラウスなきこの芝居の醍醐味とはなにか。
過剰なまで多種多様な人物が登場するが、一人として「正しい」ような人物は存在しない。
元帥夫人は一見、時に流される悲劇の人物のように見えるが、若き恋人との別れは、繰り返す火遊びの代償に過ぎない。オクタヴィアンこそは、元帥不在の中、人妻といい仲になって、なんの罪悪感も抱かない若造だ。オックス男爵、ファーニナル、その他の人物も、自分自身のことしか考えないエゴイスト達。
ゾフィーだってピュアではあるが、「私は夫の名誉も妻の立場も汚さないわ」と誓ったすぐ後、現実の婿の態度に豹変するという、我がまま娘。勿論彼女に同情しない観劇者は誰一人としていないが。
そんな癖の強い人物達をSPACの癖のある俳優たちがよりどぎつく演ずるのだから、舞台は当然ながら猥雑となる。素直に笑うには少々ゴテゴテしすぎかなと思っていると、最後はそれらが霧の消えるように晴れ、何か透明な、無常観のようなものに包まれていく。脚本の狙い、演出の妙であり力であろう。
オクタヴィアン演ずる山本実幸は、年上の恋人に坊やと呼ばれるような若さを、そしてそれゆえの未熟さ、危うさを全身から発散させて、観客をはらはらさせてくれた。
時の流れが自らを傷つけないように注意していたにも拘わらず、最後に寂寥感に捉われてしまう奥方。本多麻紀の奥方は舞台の思想そのものを体現したかのような存在感があった。
ゾフィー役の宮城嶋遥加は若くておきゃんで、わがままで、信仰深くて、無邪気に飛びはねる娘を演じて、一瞬にして舞台の中心に躍り出た。ゾフィーの純粋さ、それを演じた宮城嶋の存在があったから、この芝居が猥雑さに崩れ落ちて行く間際に浮上できたのは間違いない。
脇役含めこうした俳優たちの好演を支えたのは、やはり音楽だろう。舞台の脇で奏でられる音楽が、舞台で歌われた登場人物毎のテーマが、人物と人物、場面と場面を結び付け、あるいは切り離してくれた。
登場人物は誰もが欲望に駆られるエゴイスト達だが、欲望は人間の生命力と同じ謂いである。この芝居は階級社会で生き抜くための人間の卑俗と崇高、混濁と純粋、喜びと悲しみ、それらのやや危うげなバランスを鮮やかに見せてくれた。猥雑なドタバタこそが、人間のこころのはかなさ、人生の無常を際立たせたのだ。
さて、舞台には幕が引かれたが、物語が終わったわけではない。若い二人の行く末はどうなる。いかにも危なっかしい。元帥の奥方だって、これで火遊びを終えるとは思えない。オックス男爵が察した不倫の後始末だって不穏だ。
すべては次の物語に引き継がれていく。それらを悉く音もなく時が流していくのだ。我ら観劇者だって同様その流れの中にいる。あたかも砂時計のように流れ落ちる時の中に。