■入選■
丹治佳代
暗くなりゆく有度の森を背景にし、細かい雨と異界から漂ってくるような霧に包まれ、6月26日上演の『王女メデイア』は野外公演ならではの非常に美しい舞台となった。宮城聰演出の『王女メデイア』は、明治時代の日本において、法律家の男たちによって催された宴席での余興として、つまり劇中劇として演じられる。男たちは登場人物の台詞を語り、朝鮮から連れてこられたと思われる女たちが、生きた人形として舞台上で無言のまま動き回る。
この『王女メデイア』は、ク・ナウカ活動時から宮城聰の代表作と言われ、インターネット上でも過去の上演について多くの劇評を読むことができる。そこで、本劇評においては、ロゴスと非ロゴス的なものとの対立、そして後者による前者への復讐…といった点は他の劇評に任せることにして、(他の劇評ではあまり論じられていないと思われる)本作品における「破滅と再生」という点に論を絞り、評を進めていきたい。
破滅と再生というのは、ギリシア悲劇を考える上で外すことのできないキーワードである。主人公オイディプスが、人間としての視力(=ものごとの仮象の姿しか見ることができない)を捨てることで神的な視力(=真理を見る力)を得ようとする姿を描いた『オイディプス王』など、ギリシア悲劇作品は、「現在のあり方としての破滅と、さらに高い次元の存在への再生」というテーマを含んだものが多い。エウリピデスの『王女メデイア』も例外でなく、子殺しを終えたメデイアが竜車に乗って上空へと去っていくというラストシーンにおいて、彼女が人間を超える存在となっていくことが示されている。
では、メデイアの再生を端的にあらわすこのシーンを完全にカットした宮城版『王女メデイア』において、「再生」は、そして再生の前提となる「破滅」は、一体どのように表されているだろうか?
まず、「再生」の前段階となる「破滅」について。私は、宮城版『メデイア』を観るまで、メデイアの破滅というのは子殺しを行なってしまうことだと思っていた。が、宮城演出により次のことに気づかされる。メデイアの破滅というのは劇が始まる前に生起しており、メデイアはすでに破滅を引き受けながら生きているのだ、と。つまり、メデイアにとっての破滅とは、劇の前から前提としてあること―「女であること」そして「(ギリシアにおいて)異国人であること」だ。このことを気づかせるのは、上演前の光景―観客が客席に案内される間ずっと、舞台上では女たちが頭に紙袋を被せられ、手には自分の写真を持ち、微動だにせず静止している―だ。この一見異様な光景は、主体性を奪われた女たちが、自らの遺影を手にし、静かに自らの弔いを行なっている様子を物語っているのではないか。つまり女たちは、上演が始まる前にすでに、自分自身を弔ってしまっているのだ。ここで弔われているのは、強固な男性原理・家父長制度のもとで女として生きる存在、また帝国主義のもと異国人として生きる存在だ。舞台上にあらわれる男たちの騒々しさに比べ、彼女たちの静かさは、その内に強靭な力を秘めているように思われる。
劇中劇としての『王女メデイア』はほぼ原作どおりに進められてゆくが、上演前に早々と自らの弔いを決行してしまった女たちにより、男たち―支配の側にある存在―の世界が徐々に侵食されてゆき、ついにラストシーンで、今までの力関係が一転する。語り手の支配下におかれた人形であった女たちが男たちに次々と襲いかかり、躊躇うことなく彼らを殺していくのだ。鈴を持ち、赤いスリップドレス姿になった美加理のたっぷりとした豊かな肉体が圧倒的に美しく、原始的で力強い母性を感じさせる。この「女たちによる男たちの殺害」というラストシーンこそ、竜車に乗って去っていくメデイア像の代わりに、宮城聰が本作品に与えた「再生」のシーンである。女たちに殺された男たちは床の上で丸くなるが、その姿は母親の胎内で誕生の日を待つ胎児のようだ。女たちは、男たちに復讐を行なったのではなく、再生させるため、新しく生きさせるために、彼らを殺したのだ。つまり本作品においては、すでに破滅を引き受けた存在がその手で、これから滅びることになる者たちに、再生の契機を与えている、と言えよう(男たちの行く末は、床に敷かれた日の丸―書物の差し込まれたオブジェが突き刺さり、血を流しているかのようだ―によって暗示されている)。こうして宮城版『王女メデイア』は私たちに、「今あるあり方から脱し、新しく生きるためには、まず一度滅びねばならない」というメッセージを投げかけ、幕を閉じる。
また、本作品における「破滅と再生」を語る上で欠かすことができないのは、襤褸をまとい最初から最後まで舞台脇に座り込む乳母の存在である。彼女は、二千年以上『王女メデイア』を観続けてきた観客であり、現在本作品を観ている私たちであり、これからも『王女メデイア』を観続けていく存在だ。終幕時、イアソン役の男性にそっと上着をかける乳母の姿は、「私たち人間は、時代を問わず洋の東西を問わず、エウリピデスの生きた時代のずっと前から今に至るまで、常に再生を求め続けているのだ」ということを強烈に語っていた。
宮城版『王女メデイア』については、その演出において「男性と女性」「ロゴスとパトス」などといったわかりやすい説明図式を用いたことで、劇として幾分単純なものとなった、と論じられることもあるようだ。しかし本作品は、女たちによる男たちの殺害という強い劇的カタルシスの後に、人類が絶え間なく抱き続けてきた再生への切実な希求―それは絶望でも希望でもあるのだろう―を感じさせるという、非常に複雑で深い余韻を残すものであり、単純などといった言葉からは遠くかけ離れた作品であると言えるだろう。
(6月26日観劇)