トリゴーリンこそ令和の「かもめ」だ
オスターマイアー演出のシャドウビューネ版『かもめ』は「今、なぜ、この作品を上演するのか」という問いに⾒事に応えた作品だった。
これまで⽇本でも多数『かもめ』を⾒てきたが、今回の『かもめ』が決定的に違ったのが、作品の焦点をトリゴーリンに当てていたことだ。なぜトレープレフでもなく、ニーナでもなく、トリゴーリンなのか。それはトリゴーリンに焦点を当てることこそが、「今、なぜこの作品を上演するのか」という問いの答えだからだ。
作品はドイツで作られているので、「令和」を当てはめることは憚られるが、上演された国の、時代の切り取りとして敢えて「令和」を使わせてもらうと、令和は⼀億総SNS時代とも称される時代だ。多くの者がSNSで⾃らの意⾒や気持ちを述べ、他者の意⾒や気持ちを⾒ている。時には「⾒ている」を通り越して「監視している」時代である。
時代の潮流に乗り⼈気作家になったとしても、スキャンダルで⼀瞬にして⾜元を掬われる時代だ。持ち上げるときは天⾼く持ち上げ、叩くときは粉々になるまで叩ききる。それ故、名声を得たものは常に「求められている⾃分」であり続けなくてはならない。
名声を得ていなくても、社会で抹殺されないためには「求められている⾃分」を常に表現していなくてはならない。そんな時代だ。
そんな時代に『かもめ』を上演するならば、なにになったらいいかわからないトレープレフでもなく、なりたいもののために犠牲を払うニーナでもなく、「求められている作品」と「本当にやりたい作品」との乖離に悩むトリゴーリンが適切なのである。社会の中に適合し、名声も得て、パートナーがいて、他者から⾒たら憧れられるような存在にも関わらず、時代の要請に応えるばかりになり、作家の原点である、⾃⾝から湧き上がる「書きたいもの」を書けずにいる。「⾃分」を後回しにし、⾃分の本能に従順でいられない。常に理性が働き、正しくあろうともがいている。「なりたいもの」に⽬を輝かせるニーナに思いを寄せるシーンも、このトリゴーリンの描き⽅であるならば、若い⼥性に⽬移りしたと捉えられがちなところを、トリゴーリンのキャラクターを描き切るシーンに瑞々しく⽣まれ変わるのだ。
「時代」というふわふわしたよくわからないものに適合しようともがき、悩む姿は間違いなく今を⽣きる私たちそのものである。
だからこそ、時に観客を「今、ここにあるもの」としている演出がとても効果的なのだ。
観客にサッカーボールを⾶ばしてみたり、観客を実際にモデルにして模写してみたり、様々な⼿段を使って、演者たちから観客に視線がいく。私たち観客は⾒ている側から急に舞台上に乗せられる。物語の中に⼊り込む。この効果は実に巧みで、現代の、常に誰かに⾒られている状況を表出させているのだ。
そして、その⾒られ⽅は⼀⽅向ではなく四⽅⼋⽅からなのであり、その点で囲み舞台であることは⾮常に合理的な配置である。
また、劇場の形に縛られず、⼤胆に本来の舞台⾯に客席を配置し、空間を狭めていることも作品の濃密さとマッチし、独特の息苦しさを感じさせ、⼀⽅で⾼い天井から照らされる照明は広⼤な⼤地を思わせる。⼼情と場所の表現が空間⼀つで⾒事に表現されていた。
場所、という点では殆どをビーチチェアのみで表現していたことも作品の強度とテーマ性、俳優の⾒事な演技を際⽴たせるための素晴らしいアイディアだった。ビーチチェアから受けるバカンスの印象は、「とどまれなさ」につながり、全体として作品のテイストを明るくしていた。
舞台装置からトリゴーリンに焦点を当てた点に話を戻そう。
トリゴーリンは撃たれたかもめを⽬撃したところからニーナと親しくなる。そして剥製になったかもめを⾒せられたトリゴーリンは、このかもめの存在を思い出せず、その時にはニーナとの関係は解消している。
そう、死んだかもめが剥製になるまでの期間は、トリゴーリンとニーナが恋愛関係であった期間だ。トリゴーリンが「求められている⾃分」から逸脱し、本能に従おうとしたうたかたの2年である。しかし、本来の⾃分を取り戻そうとしたトリゴーリンは、その試みに失敗し「求められている⾃分」に戻ってしまったのだ。だからこそトリゴーリンには、かもめからはじまり、かもめで終わった時間はもはや亡きものなのである。思い出したくても思い出せない、尊くも儚い、幻の時間だった。かもめの剥製を⾒て、その存在を思い出せないトリゴーリンで終幕するこの『かもめ』はまさに、社会の正しさに絡め取られたトリゴーリンの哀愁をもって締めくくられるのだ。
そして、これこそがオスターマイアーから現代のアーティストに対する警鐘なのではないだろうか。時代や評価という他者の⽬にさらされ続けた結果、本当に作りたいものから逸脱し、本質を⾒失った作品ばかりが登場していないだろうかというオスターマイアーからの問いでもあるのではないだろうか。
『かもめ』にはたくさんのすれ違う愛が登場したが、このオスターマイアーからの愛ある問いがすれ違いにならないことを切に願う、そんな作品であった。