■卒業者劇評
母なる海が煽り立てたマゾヒズム的生成変化の舞台
―フェルナンド・ペソア作 クロード・レジ演出『彼方へ 海の讃歌』劇評
森川泰彦
1 テクスト分析
I 大意
II 解釈
i マゾヒズム幻想論
ii 生成変化論
2 上演分析
I 演出家の読解
II テキスト・レジ
III 演出
i 前説
①〈現実〉〈虚実〉〈虚構〉
②「空無」「欲望」「力動」
ⅱ各説
①〈物体〉
②〈身体〉
③〈光〉
④〈声〉
⑤〈空間〉
iii 総説
①一体的〈虚実〉
②無と力の美学
③無意識的「交歓」
3 レジ演劇導入の意義
1 テクスト分析
この舞台が上演対象とするのはペソアの長詩であり、これをほぼそのまま一人の役者が「朗誦」することが、その大部分を構成している。従って、この舞台の享受においてかかかるテクストの理解は決定的に重要であり、まずはこれを詳しく分析しておく。
Ⅰ大意
波止場に佇む一人の男が、遠く入港してくる貨物船を眼にするところから、「物語」は始まる。動力船に我知らず同一化し、己と世界のアイデンティティの揺らぎを感じ始めた男は、内なる「はずみ車」を回して想像の大海に乗り出すのだ。まず、「絶対の隔たり」である「在りし日の海」の「神秘」に想いをはせながら、彼は「水の夢」に囚われ始める。海は様々に彼を呼ぶが、それを集約するのは、「イギリスの船乗り、わが友、ジム・バーンズ」の叫びである。彼はその声に「おれの血へ向けられた古の愛」を感じ、狂おしく出発へ駆り立てられて、「人生の窮屈さ」に「激昂する!」。海洋冒険者たちへ、「おまえたちと道徳観念をなくしたい!」、「遠くで自分の人間性が変わるのを感じたい!」「規律ある、繰り返しの生活を」「脱ぎ捨てたい」と羨望を込めて呼びかける男は、雄叫びを上げつつ次第に常軌を逸してゆく。反乱を起こして船長を首吊りにする船乗りたちに血を滾らせた彼は、ついには、古の「凶暴で強欲な大海賊の歌」が轟く中、自ら非道な殺戮に加担して愉しむに至るのだ。
ところがそうした「サディスティック」なイメージは、二度にわたって「マゾヒスティック」なイメージへと一転することになる。「おれの人生を」「海に投げ入れたい」男は、「苦痛を孕みながら享楽的に『死』に導くこと」を欲し、「おれを切り刻み、殺し、傷つけよ!」と叫び、「おれは生身のまま、世界のあらゆる海賊犠牲者たちの集大成になりたい!」、「海賊たちに犯され、殺され」「たすべての女になりたい!」と告白するのである。「夢がその絶頂に達しようとするなか、おれは完全に自失し、」「おれの中の女性性」が「おまえたち(=海賊)となる」。「とめどない官能性の中で」「おれは服従の役割をいつまでも誇り高く手にしたい」と洩らす。言葉にならない叫びは極まり、「おれのなかでなにかが砕け」、その結果「おれの魂は空になり」「夜の海だけ」が残る。その「『海』の深いところから」「セイレーンの声が」「生まれ」、「この歌の響きはおれの過去から二度とふたたび手にすることのなかったあの幸福を呼んでいる」。彼は、「息子を亡くしたこともあっておれをかわいがってくれた年老いた叔母」の歌った船の歌を思い出して涙を流し、「美しき王女」の歌や「誰かに壊されたおれの人形」の想い出に浸りながら、「子どもとしていつまでも、喜びのままいつまでもいることはできないのか」と嘆く。崩壊しかかった想像力を呼び覚まそうと苦闘する中、「突然に、より遠くから、より深くから」やってきたのは、「思いがけない冷たさ」である。「バーンズの古の声」が、「おれのなかで母親の膝と妹の髪のリボンといったたわいもないことについての不可思議な慈愛の情の声となり、事物の表層を超えて奇跡的に到来する」。それは、「絶対的なるものの声」となって「おれを呼ぶ」のだ。
その後「おれは閉じていた眼を開」き、「夢から抜け出」して「神経の休まるここ実在の世界に」帰って来たこと喜ぶ。そして「すべてがしっかり整備され、すべてがとても自然に配置され」た「現代の海の生活」に感心しながら、「自分の時代を誇らしく思」いもする。しかし「現実のむき出しの時刻」、残ったのは「おれの悲しみだけ」である。
Ⅱ 解釈
それでは、かかる非日常との往還を内容とするこの詩の本質は、一体何なのか。その白昼夢の大きな特色をなすのは、第一に、海に誘われた幻想であること、第二に、そこにおいて主人公が、次々と他なるものへと変容してゆくこと、第三に、残虐なイメージが奔出し、その中で加虐的な場面が被虐的な場面に転換すること、第四に、殊にその被虐妄想において女性化すること、第五には、それを経て、暖かくも冷たい母親的雰囲気に包まれた後に、現実に帰ることである。最後の前半については敷衍しておくと、心優しい叔母と共に想起される幼少期が、絶対的に失われてしまったものとして強い郷愁の対象となり、そして、当初男の船乗りのものと聴こえた主人公を夢想へ誘った声が、「神秘」的な「冷たさ」の中で、母親に関わるイメージを伴った慈愛の声としてその本性を現すということである。
ⅰ マゾヒズム幻想論
その読解にあたってまず念頭に置くべきは、サディズムと対比しつつマゾヒズムの独自の意義を明らかにしたジル・ドゥルーズの議論だ(ⅰ) 。それによれば、サディストが父の地位(=超自我)を奪取することで法=体制の転覆を図るのに対し、マゾヒストは父なる秩序=法に面従腹背することでそれを自壊させる(自我の勝利)。マゾヒストは処罰の法を是認するが、そこにおいて打たれているのは父であり、それを打つのは母なのだ。その快楽をもたらすのは、父なるものを否認し、父を排した母との理想世界において新生するという、仮初の幻想なのである。そして、父の機能を代行する理想の母親の特色は、優しさと共に「冷淡さ」「残酷さ」を備えていることにあるとされる。この理論の出発点は、父を殺し母と寝たいという男児の欲望、すなわちオイディプス・コンプレックスだと言うことができる。それは、父による去勢の脅しに直面して子がその権威を受け入れ、父に同一化することで抑圧されるわけだが、その後も無意識に燻り続けている。マゾヒズムは、それを妄想において退行することで実現するのである。そしてジャック・ラカンは、オイディプスの過程を、幼児の想像界(流動するイメージの世界)から象徴界(安定した言語の世界)への参入(「去勢」)として再構成するわけだが(ⅱ) 、この観点からは、マゾヒズムとは、こうして確立した圧制への対抗戦略だということになる。そこでは、自らが内面化した父なる秩序を崩壊せしめ、永遠に失われた母との混沌を回復することが夢見られているのだ。
この詩が描くのは、まずはそうした過程である (ⅲ)。ここでは、「母なる海(ⅳ) 」に触発されて父なる法や秩序が言語と共に揺らぎ始め、もはや不可能な母との合一を求めて侵犯や混乱がイメージ豊かに噴出してゆく。「海の讃歌」とは母の讃歌であり、永久に禁じられた母との共生を取り戻さんとする無意識の歌なのだ。節目節目で発せられる分節化されない唸り声は、赤子へ退行することが必然的に伴うその泣き声でもある。そして、海賊ら他者に理想像を見出し羨望のまなざしを向けながら取り込んでゆくこの世界(鏡像的世界)で、特に「おれ」が希求する女性化とは、脱父性化を意味している。それが凄惨を極めるものとなるのは、既に己の血肉となっているものを削ぎ落とす儀式だからである。そして、こうした自己同一性の揺らぎの果てで暖かくも冷酷な母親とのつかの間の逢瀬が叶うと、今度は、一抹の悲哀を感じながらも安心を求めて父なる日常へと帰って行くのだ。
ここにおいて一義的なのは、諦念に満ちたマゾヒズム的抵抗である。サディズム的革命の要素は二義的であり、それは、意識の検閲による置き換えを次第に復元してゆく弁証法的過程の端緒、つまりは仮象に過ぎないと言える。主人公は、まず「海賊ら虐待者に同一化し、女子供を犠牲者にする」ことで鬱屈した日常をはね退けるが、次いで「犠牲者」が本当は自ら(成人男性)であること、さらには海賊(男性)と見えた「虐待者」や幻想へと誘う船乗り(男性)が、実は母なるもの(女性)であることが、最後には明らかになるからである(ⅴ) 。
ⅱ生成変化論
またドゥルーズは、後にフェリックス・ガタリと共に「アンチ・オイディプス」的立場を鮮明にし、精神分析を批判するわけだが、そこで提唱された「女性への生成変化」を通じてこの詩を体験することもできる。
彼らは、精神分析に代表されるような、否定的人称的な欲望の把握や記号を起源的意味に従属させてしまう解釈病を批判する。そして社会を横断する肯定的集団的な流れとして欲望を捉え、芸術を新しい知覚の生産と見做すのだ。また、ここでいう「女性」とは既存の存在たる「男性=人間」ではないもの(「マイノリティ」)であり、それへの生成変化とは、自己同一性の絶え間ない解体、生の解放を意味している。マゾヒストの自虐プログラムも、有機的に組織された主体を分裂症化させて「器官なき身体(A・アルトー)」を獲得するための方法、生成変化の方法の一つとされるのである。また彼らは、秩序化された「条理空間」と無秩序な「平滑空間」を対比しているが、海は平滑空間の原型であり、いまや条里化されてはいるが再び平滑化されうる場でもある(ⅵ) 。
そしてこの詩において主人公は、「はずみ車」を内蔵した動力船への生成を基盤に、船の様々な構成部分、残虐な海賊とその被害者、殊に女性、さらには「倒錯した崇拝の神」、あるいは「罪悪の中にあるすべて」「すべて以上のもの」「巨大な腐敗物」といった観念的事物にまで、目まぐるしく己やその部分を変身させ、あるいはそう成ることを望み続けるのだ(ⅶ) 。また、千変万化するのは自己だけではない。世界や他者もしばしば変貌し、自他の境界自体が溶解しさえする。このテクストの鑑賞においては、感覚や情動の激しい変動と共に、こうした生成変化の知覚を追体験することが、その不可欠の要素となっているのである。
しかしそのために、彼らの過激な肯定的欲望一元論を採らねばならないということはない。それは精神分析的前提(少なくともラカン的オイディプス解釈の場合)とも十分接合可能なのであり(ⅷ) 、かつそうした知的理解によって、その受容をより豊穣なものとすることができる。精神分析的解釈の狭隘さに対する彼らの批判は傾聴に値するが、あるべき理想からの批判にとどまらず、今ある現実の分析としてそれを否定してしまうのは、かえって狭量なのだ。
2 上演分析
それでは、一見支離滅裂に見えもするが、豊かな細部と共にこうした精緻な構造を備えた非戯曲は、どのように舞台化されたのか。その上演の分析に移ろう (ⅸ)。
Ⅰ 演出家の読解
公演直後のアフタートークの際、レジ氏に、この劇においては「母なる海に面して」「マゾヒスティックなイメージが展開する」ことをどうお考えかと質問してみたが、前者については、海が母だとは考えていなかったとのことだし (ⅹ)、後者については繰り返しお尋ねしたが、マゾヒズムそれ自体には格別の関心がないようであった。後で読んだが、この舞台の演出ノートも同様と言える。またノートには「サド‐マゾヒズム」とあるが、前述のドゥルーズの議論は、S・フロイトも依拠したかかる統一概念を批判したものである(ⅺ) 。従って、彼がこのテクストの本質をマゾヒズム幻想として把握する、前述の解釈を意識していないことはほぼ明らかだ。
他方、質問の前半に対しては、海を精神的な牢獄からの解放を可能にする場だと捉えている旨の発言が続き、後半に対しては、代わりに主人公の女性化の意義が強調されていた。演出ノートでも、この詩においては「あらゆる境界線が消滅」すること、「ペソアは私たちの知覚様式、生存様式を動揺させる」こと、ここでは「肉体は思考する」ものであることが指摘される。こうしたことからは、具体的にドゥルーズ=ガタリが念頭にあったかどうかはともかく (ⅻ)、その生成変化論に近い発想に立っていたものと思われる。それでは、こうした理解は上演にいかなる影響を及ぼしたのか (xiii)。
Ⅱ テキスト・レジ
まず、テキレジを検討しておく。「テクストに対する偏執的なまでの執着」を持つレジ氏は、「よほどの事情がない限りテクストに手を加えることはしない」(xiv) とのことだが、今回の演出では、日常生活へ帰還する最後の部分をかなり削っていた。こうしたカットは、このテクストにおけるマイナーなものへの生成変化にのみ着目し、それを肯定する立場からはありうる選択だろう。しかし、これをマゾヒズム幻想として把握する場合、その本質が現実に対する否認(それからの逃避)にある以上、日常的現実との対比は重要である。従って、致命的なものではないにせよかかる削除は望ましくないし、またそれは、彼の不十分な読解に起因したのだと思われる。
Ⅲ 演出
ⅰ 前説
演出の検討に移ろう。この上演が取り上げるテクストは、元々舞台に掛けるために執筆されたものではない。そして演出家は、おそらくそのマゾヒズム幻想性を理解しておらず、その構造や細部の意味を知悉していない。それではこの演出は、テクスト自体が持つ舞台化の困難やその浅薄な読解を反映した貧しいものだったのか。それは断じて違うと言える。この舞台は、レジ氏が意識的だった生成変化劇の側面は勿論、そうではないマゾヒズム幻想劇の側面においても極めて優れており、芸術的感受性に富んだその観客を、稀に見る劇的感動をもって揺り動かしたのだ。それではそうした(共同)主観的結果は、いかなる客観的条件の下に実現されたのか。
①〈現実〉〈虚実〉〈虚構〉
その具体的分析に先立って、まず予め、一まとまりをなす三つの概念を定義しておく。(物語)芸術においては、物質的手段によって理念的内容(≒物語)が表象=代行されるわけだが、その間に働く意味作用を捉えなければ、それを十全に理解することはできない。そこで、これらをそれぞれ、〈現実〉〈虚構〉および〈虚実〉と呼ぶことにする(xv)。例えば、横に引かれた一本の〈現実〉の墨の跡は、観る者に数の1という〈虚構〉(ⅹⅵ)の内容を伝達するが(「一」という文字の意味)、それが書道の作品だとすると、その鑑賞において決定的に重要なのはそうした最終的意味の理解ではない。それは例えば、端正や流麗あるいは奔放といった、〈現実〉に対しては形相的だが〈虚構〉に対しては質料的でもある〈虚実〉の意味の享受なのだ(ⅹⅶ) 。
こうした観点からこの上演を見れば、まずそれが対象とする〈虚構〉は、外見においては非常に動きの少ない人物の内面において、鮮烈な妄想が奔流するという複層構造を成している。これは演劇の台本としてはかなり異例なわけだが、演出家は舞台化にあたってかかる構造をおおよそ保持した。すなわち、まずその外枠をなす、男が海辺に佇むという〈虚構〉を、台の上に男優が上り直立するという〈現実〉によって直接的に現前させる。そしてその内枠をなす、白日夢という〈虚構〉(=所記)を、その男優の声という〈現実〉(=能記)がその土台をなす言葉(=記号)によって、間接的に提示したのである。前者は通常の演劇における表象=代行型演技(〈虚構〉の行為の〈現実〉の模倣)に、後者は語り物における語り(言葉による〈虚構〉の説明)に対応すると、一応は言うことができる。しかしこの舞台の特長は、両者が全く同時に融合した形で演じられるということにある(ⅹⅷ) 。舞台上の〈現実〉の諸物は、日常的客観と非日常的主観という全く異質な二重の〈虚構〉を立ち上げるため、それぞれ適切な〈虚実〉性を帯びなければならないのだが、これらが一体化して一つの〈虚実〉となり、上演全体を貫いているのだ。そしてこうした結合は、当然両者のあり方に影響を及ぼし、これらを通常の演技や語りから大きく逸脱させることになる。
②「空無」「欲望」「力動」
また各論に入る前に、先に触れた(象徴的)去勢に関わる精神分析的概念についても概観しておこう。言語とは不在の所記を現前する能記によって表すものだが、ラカンによれば、主体はこの言語を獲得し、それに置き換えることで、己の存在(原初の満足体験)を抹消してしまう。これが去勢であり、かかる疎外(「物の殺害」)と引き換えに、主体はこの象徴(化された世)界への登録を得る(「原抑圧」)。欲望とは、かかる去勢において決定的なものを失った主体がそれを取り戻そうとする力であるが、その対象は絶対的に欠けているため、決して目的を完遂することはない。精神分析(特にラカンのそれ)とは、人間(や他者)の本質を、このような原理的な「空無」を目指す根源的な「欲望」が引き起こす精神的な「力動」によって把握するものなのだ(ⅹⅸ) 。
ⅱ 各説
それでは、この劇における〈虚実〉はどのように造形され、どのような効果を持っていたのか。以下では、舞台の主たる構成要素ごとにその表象作用を分析することを通じて、その詳細を明らかにしてゆこう。なお便宜上個別に論じるが、これらが独立したものではなく、相互に密接に関連しており、互いの効果を相乗的に高め合うものであることを強調しておく。
①〈物体〉
俳優が立つ〈現実の台〉は〈虚構の桟橋〉として現れることで波止場を出現させるわけだが、それは、主人公が船を眺める地点という現実的場所を表す〈虚構の波止場〉であると同時に、主人公の空想が展開する内面の世界を表現する〈虚構の精神界〉にもなる。そして後者は、日常からの脱出地点という理念的場所を表す別の〈虚構の波止場〉として、自己言及的に形象化されてもいる(「偉大な波止場」)。紗幕で区切られたほとんど何もない空間に置かれたこの台の特徴は、そのリアリズム的質感の乏しさにあり、その印象は、台の支柱となると共にその両脇上方に吊り下げられた銀色に光る無機質な棒が、規則的に並ぶことによって強められている。激しい出入りが刻み付ける多数の傷といった、現にある波止場が持っているはずの活動の痕跡を全く留めないこの〈虚実の物体〉は、日常的現実を確実に表象しつつもそれを後景に退かせることで、はるかに重要な非日常的空想を前景化せしめるのだ。
そして、役者がそこから一歩も動かないこの台の狭さとそれが纏う規則性は、主人公が囚われた日常的秩序を寓意し、また周囲に広がるその具体性の欠落感は、彼の内面的不毛を象徴すると同時に、その上で発展する非日常的自由の感覚の媒体ともなる。
②〈身体〉
同様に、一定の緊張を孕みながらほとんど微動だにしない男優の〈現実の身体〉は、おそらくは物思いにふける人間特有の脱力した体で佇む主人公の〈虚構の肉体〉を存在せしめると同時に、その激しく流動する〈虚構の精神〉へと生成している。語り物において必然的に現前しているはずの「語り手」は、ほとんど消滅しているのである。そしてその〈現実の身体〉は、イギリスの船乗りの「大きな両手でメガホンをつくり、口の両側に手をおきながら」叫ぶ仕草を再現するため、ゆっくりと両手を上げる場面の他はほぼ不動の姿勢で、伸ばした指に力を込めている。これは、直立しているだけで辺りに劇的な強度を波及させる能の身体を知っている我々日本人には、やや弛緩した印象を与えもする。しかし、非日常的な不動の緊張によって精神性を強調しながらも、日常的な弛緩も交えて肉体性を付加する複層的な〈虚実の身体〉としては、十分に機能していたのだ。
そして、このように整然と硬直した姿が発する拘束感や不自然感は、主人公の自律性の剥奪、あるいはその内面に対するオイディプス的ないし有機体的抑圧の表現となってもいるが、他方その垂直に伸びる力強い姿は、そうした剥奪や抑圧に押し潰されない欲望の内圧を意味してもいる。
③〈光〉
緻密に設計された照明は、場合によっては数種の単色を重ねて白く明るさを強調するが、多くの時間帯では光量と共に塗り重ねが制限され、一色のこともある。こうした幽かな〈現実の光〉は、物語における日常的現実の〈虚構の光〉たる朝日からは大きく乖離しているわけで、その〈虚実〉は、物体や身体の場合以上に非日常的内面の構築に向けられている。それは、黒い紗幕と共に劇場の壁などの観客を取り囲む諸物の存在感を弱めることで、実在感の乏しい異空間を立ち上げる〈虚実の光〉となっていたのである。
光の恒常的な制限が作り出す〈現実の暗がり〉は、〈虚構〉における主人公の心の闇を象徴する〈虚実の闇〉を引き寄せ、それが醸し出す重圧感や収奪感は、彼の精神的苦境や絶望的渇望を伝え続ける。これを基礎に、〈虚構〉上の劇的強度の変動を反映して絶えず微妙な変容を見せる〈虚実の光〉が、〈虚構の内面〉において展開されるマゾヒズム幻想の発展やマイナーなものへの生成変化がもたらす一時的解放を、物質的に知覚させることとなった。それが生み出す〈現実の色彩〉は、冒頭の場面が、「朝の青白さ」という詩句に対応させて(あるいは海の照り返しとして)、役者の上に青と白を順次重ねることで始まり、殺戮の場面では彼や背景面が血の赤に染まるなど、時に〈虚構の色彩〉と連携しもする。しかしより重要なのは、それをはみ出す〈虚実の色彩〉が、劇場の闇に仄かに浮かぶその単純で不気味な美しさによって、常は精神の底で蠢きながら時に己を沈め込む規範の力に抗って噴き上がる欲望(ないし欲動)の力という、本来不可視の〈虚構の力動〉を、観る者に実感させたことなのだ。
④〈声〉
海を見つめて立ちつくしている男はおそらく一言も発しないわけで、客観的現実として立ち現れる〈虚構〉に声は存在しないが、他方、主観的妄想として立ち上がる〈虚構〉においては声ならぬ声が響き続け、時折叫びならぬ叫びが木霊している。こうした現実的不在在と超越的存在の二重性を難なく両立せしめたのは、男優の発する〈現実の声〉を、遅いテンポや独特の調子によって異化することが生み出した〈虚実の声〉である(ⅹⅹ) 。〈虚構〉の外に立つ語り手の間接的な語りとしてではなく、〈虚構〉の主人公の内面の声として直接的に現れるその声は、そのありえなさによって非在を表象しつつ、饒舌に超在を語り続けたのだ。
そしてその特異な語り方の不自然さは、本来の充実した在り方を根こそぎされた彼の疎外を示唆し、またその語り方の厳格な束縛の一貫性は、厳正な法(則)の支配を触知させるが、同時にそのとめどなさや、特に叫びに見られる切迫性は、体制が抑えきれない精神的エネルギーの流出を印象付けることになる。
⑤〈空間〉
この上演が行なわれた楕円堂は、地下深く潜ってゆくようなその入場の仕方や、地上への出口であるかのような最上部の光窓が、その空間を囲い覆われたものというより掘り抜かれたものと錯覚させ、また、三段に積み重なって頂上を目指す露出した多数の柱とそこから降り注ぐ光が、ゴシック教会のように、その構築の厳密さや強健さとその内部を縦に貫く彼岸の力を感受させる。またこれは、その名が示す平面の形や空間の深み、圧迫感をもたらす狭さなどが、子宮を想わせる建築でもある。上演前に得るこうした空間特性についての予備的感知は、開始後に次第に深まる〈虚構〉の理解と呼応することで、海と母の連想を「母体」とするこの劇の〈虚実の空間〉を支えてゆく。それは、内部を刳り貫かれ、外部に組み込まれた何物かが現前しているという感覚、それらに関わる超越的な力が現働しているという知覚、さらには母なる海の只中にいるという感触を、観客(の無意識)に与える土台となっていたのだ。
そしてこの場所は、(レジ氏の知らぬことであろうが)通い慣れた者に対しては、この舞台のマゾヒズム幻想と交響する豊かな上演史的記憶を喚起するものであったはずである。それは、傑出したマゾヒズム演劇作家たる鈴木忠志氏がその拠点とした劇場なのであり、幾多の古典に秘められた内なる父の「転落の享楽」とその「自壊のユーモア」を、類稀な劇的強度をもってその隅々にまで行き渡らせた領域なのだ (ⅹⅺ)。
ⅲ 総説
①一体的〈虚実〉
波止場に立つ男という〈虚構〉はその内容の希薄さから後景化されているが、その表象形式である代行型演技の〈虚実〉は、はるかに濃厚な〈虚構〉である彼の幻想を表象する「語り物」形式の〈虚実〉を、全面的に浸食している。語り物の〈虚実〉は、表情や身振りが重要な役割を果たすことがあるにせよ、主として語り方が生み出すわけだが、この演出の場合、このように模倣的演技と融合していることで、全く異なる可能性を秘めたものに変貌しているのだ。こうした一体的〈虚実〉は、〈現実〉の抑制的使用がもたらす抽象化や不動化、希薄化や異化と相まって、本来矛盾するはずの激しくも静かなこのテクストの複層的〈虚構〉を、白昼夢を優先させる形で共存させる器となりえていた。戯曲として書かれたわけではないこの詩を、通常のスタイルである朗読としてではなく独自の演劇として上演することが可能となったのは、そのためである。
②無と力の美学
そして、これを基盤にかかる〈虚実〉は、舞台に一定の強度を漲らせながら、このテクストの〈虚構〉を構成する精神分析的主題と深く響き合う土壌を作り上げてゆく。先に見てきたように、この上演における実在感を欠く物体、不動の身体、乏しい光、闇の中の色彩、非日常的な発声、連想と記憶の劇場といった〈現実〉が帯びる〈虚実〉には、超越的な否定性・空虚性が濃密に立ち籠めている。こうした欠如は、本来備わっていたはずの活き活きとした充溢を強奪した去勢の力を知覚させる一方で、そうした空無は、そこに流れ込み禁断の充足体験を再び味わおうとする欲望の力をも感知させる。またこれらの〈虚実〉は、同時に超越的な拘束性・支配性を帯びることで、象徴界に固く組み込まれた主体の受ける抑圧をも実感させたのである。レジ氏の演出の特徴をなすその造形における洗練された禁欲は、その裸形の審美性や感覚の独自性からのみ把握すべきものではない(ⅹⅻ) 。それは、舞台にこうした虚無と力動を偏在させることで、テクストに隠された人間(や世界)の本質的な欠如と、それが駆動する欲望の力やそれを保持せんとする体制の力を炙り出す、精神分析的な無と力の美学なのだ (ⅹxiii)。こうした卓越した方法の妥協を許さぬ貫徹によって、この舞台の〈虚実〉は、秩序の力に逆らいながら、去勢によって存在の只中に穿たれた穴を埋め戻そうとする退行の力の昂進と衰退という、このテクストの精神分析的〈虚構〉の進行を基礎付けることになる。加虐的イメージに続く自虐イメージの転換展開が錯覚させる父なる日常的秩序の崩壊(と再建)や、様々な人物事物への変化解体が体感させる非日常的自由の発散(と収束)は、語られる言葉によって理念的に喚起されるにとどまらず、こうした〈虚実〉によって物質的に強化される。精神分析的なマゾヒズム幻想と生成変化をその内実とするこのテクストは、多少の瑕疵はあったにせよ、こうしてその潜在性を十全に発現させることとなったのである。
③無意識的「交歓」
なおこの演出が、その精神分析的〈虚実〉と精神分析的〈虚構〉の連関によって、かくも豊かな成果を上げることができたのは、特定の解釈を押し付けずにその大部分を観客に委ねるという彼の演出スタイルの故であるとも言える。しかし、それは決して、テクストに真摯に取り組む態度を欠いた無演出ではないことを確認しておこう。まず演出家は、先に示したように、このテクストに見られるマゾヒズム的な夢想の展開の構造については意識を欠いていたようだが、アナーキーな生成変化の欲望の発露については認識していた。そして、この演出における個々の選択が無意識的判断の結果だとしても、その言わば無意識的演出法自体は、意識的追求の産物である。さらに、そもそも「作品」は、「作者」の意識に還元し尽くされるものではない。この舞台の凄みは、ペソアとレジ氏、そして演じ手であるジャン=カンタン・シャトラン氏の豊かな芸術的無意識が共鳴しえたことが産み出したのであり (ⅹxiv)、これを意識的に覚知しえた観客は勿論、そうした無意識を備えた観客もまた、その程度に応じてかかる交歓に加わりえたのだ (ⅹxv)。
3 レジ演劇導入の意義
最後に、レジ演劇の導入が、現代日本の舞台創造において有すべき意義について述べておこう。大家のこうした優れた舞台に接した日本の作り手たちには、その衝撃を受け止め自らの創作に活かしてくれることを期待するが、実際には危惧もある。まず、海外の流行に飛びつくのも早いが飽きるのも早く、またテキストにしかるべき敬意を払わないテキトー演劇が蔓延るこの国においては、彼の影響があったとしても、その特徴的なスタイルの一時的かつ表面的な模倣に終わる可能性は大きい。そしてより懸念されるのは、ポストドラマ概念の輸入と同様に、彼の権威が、現状の自堕落な正当化に使われかねないということだ。というのも、「古典の読み直し」型演劇の全盛期にあって同時代の戯曲を取り上げ続けたこの反骨の巨匠は(ⅹⅹⅵ) 、テクストの解釈よりパフォーマンスの現前を重視する続く世代の先駆者と位置づけられているからである。徹底した削ぎ落としにより知覚の集中を求めるその手法は、「記号学から現象学へ」「現前性の演劇、非再現=表象の演劇」といったキャッチフレーズによって語られることで、もはや舞台創造においてテクストやその読解が重要でないことを証し立てするものとして受け取られる危険があるのだ(ⅹⅹⅶ) 。
しかしレジ氏は、「つねに舞台をテクストと作家の声を明確化する場に変えようとし」、作家(テクスト)と観客の「『橋渡し役』であることしか求めなかった」ことに注意すべきである (ⅹⅹⅷ)。彼の舞台の〈虚実〉が瞠目すべき精神分析的(あるいは象徴主義的)効果を上げるのは、これまで分析してきたように、その〈虚構〉の内容と相関することによるのであり、それがリアリズム的模倣を目指さないからといって、テクストの意味が重要性を失うわけではない。彼の方法が有効性を発揮するのは、それが偉大なテクストと共振することで、その強度を増幅する時空を切り拓くからなのだ。問題は、テクストかパフォーマンスかの二者択一ではない。(言葉の)演劇において真に重要なのは、(無意識的にであれ、)優れたテクストを選び、それを的確に読むことでその強靭な力を引き出し、立ち会う者の感性や知性を刷新する出来事を舞台上に生起せしめることなのである。彼の舞台から学ぶべきは、かかる遭遇の実現過程において諸要素が具体的に関連する有様の総体であり、少なくとも、僅かな動きだの暗い照明だの遅い発声だのといったその形だけを取り出して真似たところで、何の意味もないことだけは付言しておく(ⅹⅹⅸ) 。
(2010年6月12日観劇、同年7月12日提出、同年9月22日補正)
【註】
(ⅰ)ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳(晶文社)、同「ザッヘル・マゾッホからマゾヒズムへ」國分功一郎訳「みすず2005.4」(みすず書房)。
なおドゥルーズには、その異名に関してペソアへの言及がある。『現代詩手帖1996.6特集=フェルナンド・ペソア』(思潮社)p90~。
(ⅱ)例えば、福原泰平『ラカン』(講談社)p62~,72~,100~,201~等。
(ⅲ)なるほどこの詩は、ドゥルーズが重視する犠牲者と虐待者の間の契約や、父なる法がその遵守により自壊することの醸すユーモアを欠いている。しかし、自虐の幻想において父を否認し、単性生殖の理想(イデア)を実現せしめる以上、その世界の本質をなすのはマゾヒズムと言える。
(ⅳ)ラテン語の海mareと母materは語源を同じくしていてよく似ており、これは、その派生語たるフランス語やポルトガル語でも同様である。また日本語においても、漢字の「海」は「母」の字を内部に含み、「うみ」は「産む」に通じる。そしてこうした海と母の連想の強さは、胎児の浮かぶ羊水から来るものだとしばしば指摘されている。
(ⅴ)公演当日に配られたテクストの翻訳に付された解説で、訳者の渡辺一史氏も言及している「はずみ車」の速度は、こうした(逆)弁証法的な発展=退行過程の各段階に対応している。
なお、こうしたテクストの当日配布は、後の註で述べる芸術体験の反復的深化という観点からは非常に望ましいことである。
(ⅵ)ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』宇野邦一他訳(河出書房新社)p133~,173~,317~,534~等。
(ⅶ)他にも、獣、海ヘビ、ギター、波、風の音、虚空等がある。
(ⅷ)なおドゥルーズ=ガタリ自身も、(ラカン派)精神分析を批判しながら、ラカン自身は評価している。同『アンチ・オイディプス』(下)宇野邦一訳(河出書房新社)p173~。
(ⅸ)私がレジ氏の舞台を観たのは今回が初めてである。彼の演劇一般については、この舞台からの推測の他は、来日した彼を囲むシンポジウム(こまばアゴラ劇場2003年)と限られた文献に基づいて論じていることを、予めお断りしておく。
(ⅹ)但し、他の舞台の演出ノートには、「海は子宮のようなものかもしれない」との記述がある。レジ「『だれか、来る』演出ノート」横山義志訳『舞台芸術 05』(京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター)p310。
(ⅺ)確かに、この幻視におけるサディズムとマゾヒズムの間の円滑な移行は、両者に共通のこうした実体の存在からくるかにもみえる。しかしかかる理解では、前者から後者へと展開する必然性、ひいてはこの詩の全体構造を説明することができない。
またこの移行に、子供が鏡に映る己の姿によって自己の身体的統一を先取りする鏡像段階に見られるような、ぶった子供がぶたれた気になる転嫁現象(トランジティヴィスム)を重ねることも、一応は可能だろう。しかし同様の問題に加えて、この詩における転換が意識的であることと整合しない。
(ⅻ)なお、ノートに言及された「力、強さの概念」は、ドゥルーズ的語彙でもある。
(xiii)舞台の解釈や評価は、観客の劇場体験に即して客観的(共同主観的)に行なえば良いのであり、その判断に当たって作者(劇作家や演出家のみならず俳優やスタッフのすべてを含む)の主観的な事情(意識であれ無意識であれ)を探求する必要はない。つまり、作者authorは権威authorityではない(「作者の死」)。しかし、結果としての劇場体験の良否とは別個に、それから遡及して、それと因果関係のある作者の行為の是非(責任)を問うことは可能であり、実際にそうした創作過程の考察自体も観劇体験の一部をなしている(メタ・レヴェルのオブジェクト化)。そうした観点から、本稿は後者もその対象とする。
(xiv)横山義志「可能態の現前 ―クロード・レジとヨン・フォッセ」(前掲『だれか、来る』演出ノート解説)p319。
(xv)このうち要となる〈虚実〉は、渡邊守章氏(および渡辺保氏)が提唱した〈虚構の身体〉概念を、全ての舞台表象を視野に収めるべく、伝統的訓練と身体という限定を外して二重に拡張することで得たものである。渡邊守章『仮面と身体』(朝日出版社)p242。両氏の言う〈虚構の身体〉は、本稿では〈虚実の身体〉に当たる。
また、維新派の『ろじ式』を論じた拙稿「生死・時間・移動をめぐる豊かな〈虚実〉」(フェスティバル/トーキョー09秋HPの劇評コンペ欄掲載)も、これらの概念を用いた分析であり、併せて参照して頂けると幸いである。
(ⅹⅵ)ここでいう〈虚構〉に虚偽という意味はなく、〈現実〉がその上に纏わせる理念的な意味を指している。
(ⅹⅶ)なお、意味作用は多層をなすわけで、三つに分けるのはとりあえずのことに過ぎない。それらは、扱う問題に応じていくらでも細分化することができる。
(ⅹⅷ)例えば、落語でも両者が用いられるが、それははっきり分離した形で、代わる代わる演じられる。
(ⅹⅸ)例えば、福原前掲書p100~,176~,186~,200~等。
(ⅹⅹ)もっとも、彼の舞台は発話の解体(特にその遅延と沈黙)が特徴とされるわけだが、今回の台詞回しはそれほど遅くはなく、沈黙も短い。テクスト内容の重要性に鑑みて、その正確な伝達がより重視されたのだろう。横山前掲解説p320、クリスティアン・ビエ,クリストフ・トリオー『演劇学の教科書』佐伯隆幸日本語版監修(国書刊行会)p237,528、佐伯隆幸『記憶の劇場 劇場の記憶』(れんが書房新社)p498,501。
また、極端に遅くなったのは近時のことのようだ。前述のシンポジウムでは断片的な映像上映があったが、出席した三浦基氏は、そのテンポが彼の知る最近のものより速いことに驚いていた。
(ⅹⅺ)いずれ詳論する予定だが、演目の大多数は「父性の嘲笑」や「冷酷な母親」を主たる要素とするマゾヒズム劇であり、改作や演出においてもその強化が図られている。例えば、メタシアター化により幻想性が強化され、患者(≒父ないしマゾヒスト)を冷たくあしらう看護婦(≒母)は頻出する物神である。また、しばしば役者は強度を孕んだまま彫像化し、「立てない≒勃てない」ことを示す車椅子の動きは執拗に円を描くが、それらはマゾヒスト的な期待と不安の宙吊りの企てと見做しうるのだ。
(ⅹⅻ)レジ氏は、「自らの演劇、そこでなされる経験を、『非再現=表象』であるものと主張し」、「読解可能な記号の構築を通じた言説としてではなく、」「ただ舞台における現前性と感覚の効果として、伝達」しようとする。ビエ=トリオー前掲書p525,526。しかし、そうして追求される〈虚実〉は、単層で働くのではなく、〈虚構〉との密接な無意識的連関を有していることに注意すべきである。
(ⅹxiii)ビエ=トリオー前掲書p237,527~、佐伯前掲書p499。
(ⅹxiv)前述のアフタートークでは、彼らの無意識交流的共同作業についての概説があり、その一端を窺うことができた。
(ⅹxv)私はこの劇評を、まずはこの「交歓」が不十分であった人に向けて、その役に立てることを願って書いている。芸術鑑賞においては、感性のみならず知性もまた動員される。両者は密接に絡まり合っており、理解が初めて可能にする感覚もあるのだ。そして芸術体験とは、単なる一回的受容に終わらず、その後も想起を通じた反復的経験として、様々な出来事と触発し合いながらその強度を高めうるものである。個別的作品の知的理解を鑑賞後に深めることはその一環であり、批評はその装置なのだ。
またこの劇評の執筆は、第三者的観点から繰り返し観劇の場に立ち返る機会となることで、私自身のこの劇の体験を深めてくれたが、この劇評が異論反論を誘発し、私の交歓の不十分さを明らかにすることによって、さらにそれを豊かなものとする契機となってくれることを望む。
(ⅹⅹⅵ)横山前掲解説p319。なお、前述のシンポジウムの会場質問で、他の巨匠のように古典に取り組まないのはなぜかと尋ねてみたが、他人がやっているからだというのがその答えであった。
(ⅹⅹⅶ)ビエ=トリオー前掲書p524~。
(ⅹⅹⅷ)ビエ=トリオー前掲書p525、横山前掲解説p319。また、サラ・ケインを初めとして彼の取り上げてきた戯曲の多くが、現時点で準古典との位置づけを獲得するに至っていることにも留意すべきである。
(ⅹⅹⅸ)貧しい〈現実〉が、〈虚構〉における「貧しさ」と連関する豊かに「貧しい」〈虚実〉をもたらす舞台と、単に貧しい〈虚実〉しか引き寄せない舞台とは、似て非なるものなのだ。