劇評講座

2011年6月24日

『グリム童話〜少女と悪魔と風車小屋〜』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作)

■入選■

無垢の声音は、か弱くかすれているが
〜宮城聰演出<グリム童話〜少女と悪魔と風車小屋〜>を観る 〜

阿部未知世

かつて静岡の地で、作者オリヴィエ・ピィ自身の手によって上演されたことがある、<グリム童話>シリーズの一作、<グリム童話〜少女と悪魔と風車小屋〜>を、SPAC芸術監督の宮城聰が演出、上演するという。この作品については不覚にも、ピィ自身によるオリジナルの舞台を観ていなかったことが、ひどく悔やまれた。何故なら、以前この二人の組み合わせで観た<若き俳優への手紙>が、必ずしもすんなりと腑に落るものではなかったのだから。

グリム童話の「手無し娘」を下敷きとした物語は、こんなふうに展開する。

ある日、男が悪魔と出会う。悪魔は男に、金持ちにしてやると言う。その見返りは、男の家の風車の後ろにあるものを自分のものにと。風車の後ろには、みすぼらしい木が一本。男はすぐに同意し、瞬時に男は金持ちに。しかし風車の後ろにいたのは、自分の娘。やがて現れた悪魔に、この敬虔な娘は健気に立ち向かう。業を煮やした悪魔は男に、娘の両手を切り落とすよう命じ、男はそれを実行。両手を失った娘はこの運命を甘受。誰を恨むこともなく旅に出る。旅の途中で娘は王に見初められ、妃となる。しかし王は日を置かずに長い戦に。妃となった娘は、ほどなく赤子を出産。それを伝える手紙を王へ届けるのは、何と悪魔。悪魔は手紙を改ざんし、五体満足な赤子は、おぞましい奇形児との知らせに。気遣う王の返書も、悪魔は書き換えて、赤子は殺される運命に。しかし娘は助けもあって、森の奥で子供を育てる。その場に、落ちぶれた父親、かつて娘を過酷な運命へと導いた、その男がさ迷って来ても、娘は親切に対応する。やがて七年が過ぎ、王と娘は再会し、真実が明かされ、悪魔に打ち勝ち、娘の両手が再び蘇って、ふたりは幸せに……。

この過酷な運命の物語は、感情を排するような、モノクロームの無機的な空間に生起する。大きく折り目を付けた一枚の巨大な白紙のような装置が、漆黒の舞台の大半を占める。その他には、白い折り紙で作ったような動物や樹木が少々。この極めて簡素な空間は、一切の固有名詞を排除している。固有名詞の排除が意味すること。それは、時代や場所を消し去り、物語をひとつのモデル、あるいは典型例へと変化させる。

人間の精神活動が有する、モデルとしての物語の存在について明言したのは、スイスの精神医学者、カール・グスタフ・ユングである。ユングは、人間が擁する広大な無意識領域に光を当てた。彼が捉えた無意識は、個人をはるかに超える深みを持ち、自律的でエネルギーに満ちた、創造の源泉たり得る魅力的かつ両義的な世界である。

個人の意識から排除された事柄の集積である個人的な無意識の層を超えて、無意識領域を遡るにつれて、場所と時間を超えたかたちでの無意識が出現する。すなわち社会が共有する無意識、民族および文化が共有する無意識、さらには人類全体が共有する無意識といったかたちで。これら集合的無意識と言われる領域には、時空を超えて人類に共有される精神活動のかたちがある。人間の精神活動が持つ<骨格>とさえ言えるこのかたちは、時と場所によって異なる衣装をまとってはいるが、昔話や童話など、語り継がれる物語世界や芸術作品に、まさに無意識的に反映されて生き続けている。ユングは、伝承される物語の心理的側面を、このように位置付けた。

ではグリム童話の「手なし娘」とオリヴィエ・ピィが示すこの物語の<骨格>とは、如何なるものなのか。不条理とも言える過酷な運命に翻弄されながらも、無垢の魂を失わない者は、最後には幸福を得る。運命を甘受して誰をも恨まず、過去に拘泥することなく、知恵を使って今を生き切る。その過程には自ずと神の働きも顕現し、助力者も現れて、ついには奇跡も起こって、望まれる最も好ましい情況が出現する。

<正直の頭(こうべ)に神宿る>という諺がある。このテーマをまさに集約する言葉だろう(日本の物語の中にも、<鉢かづき姫>などこのテーマは散見される)。

作者のピィは、この物語に二つのメッセージを籠めることで、さらにこの主題を明確なものにする。メッセージのひとつは、あらゆるものは、それが本来存在すべき場所を持つ。さらには、それを否定しなければ、どのような奇跡も起こりうるのだ。この二つのメッセージを発したピィは、熱烈なカトリック教徒であり、<信仰よりも神秘が大事なのだ>との立場に立つという。彼の宗教実践は、決して知的な信仰あるいは帰依という、人から神への絶対的な信頼のみでは成り立っていない。それとは逆に、神から人への積極的な働きかけが常に存在しているとの大前提から発した信頼なのだ。それ故に彼の神に向けての実践は、神の力がより顕現しやすいように、人間の側の条件を整えることにあるのだろう。その一環としてこのテキストが示す方策とは、我々は予定調和としての世界の一部となって、主役の座を降りること。そしてその世界に起こる超越的な力の働き(神秘)を恐れないこと。そこに幸福がもたらされるということなのだ。

演出の宮城は基本的に、ピィのこの思想を継承している。しかし宮城は、それが今の社会で実現することの困難さについての深い視点を加える。身体と言葉を重視する宮城は、演者にこんな制約を課す。引き攣ったようにぎくしゃくした身体の動き、そして自然な発声とは対極にある声音がそれなのだ。

悪魔は、朗々とした声で語る。対する男はしかし、かすれて小さな聞き取りにくい発声。娘の唄は無声のまま(英語の字幕は歌っているのに)。何ものをも恨まず、旅に出る娘の声は、最後までひどい風邪をひいたようなざらついただみ声。まさに、無垢の生を生き切ることの困難さを象徴して、あまりある演出だった。観終わって、苦い澱のようなものが心にあって深いため息を吐いたのは、決して私ひとりではないだろう。そして舞台音楽としての俳優たちによる打楽器演奏は、この困難な生の物語を力強く支えていた。声が、そして音が特異な役割を果たす、感慨深い舞台であった。

四回にわたるこの公演のちょうど中間で、この度の大震災が起こった。ユングの言うシンクロニシティ——意味のある(偶然の)一致——に、期せずして思い至った。未曾有の困難の中で、芸術が本来持つ深い意味を見失わず、上演を続けたSPAC の姿勢に拍手を送りたい。この災害は、多くの人に価値観の変化を求めている。その一環として、見えざるものに、今まで以上の価値が置かれる情況が生まれるだろう。それは端的に、各人が持つ心が、力として、まさに心的エネルギーとして認識され、その在り様が問われることになろう。エネルギーとしての心に働きかけ、その変容を導くことが直接的にできるものが芸術である。芸術の重要性がさらに高まる情況への第一歩を、このようなかたちで進めたことに、心からの敬意を払うものである。(2011年3月6日観劇)