劇評講座

2011年10月9日

『天守物語』(宮城聰演出、泉鏡花作)

カテゴリー: 天守物語

■依頼劇評■

獅子が竜。桃六が鷹。

奥原佳津夫

「それまで鏡花は、小説を脚色した通俗劇をとほしてのみ劇壇に知られてゐたのが、死後はじめて、ユニークな、すこぶる非常識で甚だ斬新な、おどろくべき独創性を持つた劇作家として知られるやうになつた。」とは、『天守物語』初演に接しての三島由紀夫の評。その「すこぶる非常識で甚だ斬新」な要素が、現在この戯曲の人気を呼び、それぞれ演劇観の異なる大小のカンパニーが様々なアプローチで、近代劇の枠を遥かに超えたこの戯曲に挑む魅力となっているのだろう。
SPACの『天守物語』の特徴を要約すれば、二人一役の手法で上演されるアジアの民俗芸能的祝祭劇、ということになろうか。そのアプローチの成否を、原戯曲に照らして考えてみたい。

まず、戯曲解釈の面から云えば—アジアの民俗芸能的祝祭劇というコンセプトは、この戯曲の一つの解釈として当を得たものと云える。
天守五重の魔所には、その霊力の源たる獅子頭が据えられており、討手がこの獅子と大立ち回りになる大詰めは周知のとおりだが—この獅子頭は“加賀獅子”である。そもそも、各町一基の獅子頭を祀って守護神とするのは、鏡花の郷里金沢の風習だが、そこに伝わる獅子舞“加賀獅子”は、珍しい“殺し獅子”の演舞である。すなわち、“棒取り”が得物を取って獅子に立ち向かう型で、藩政期には武芸奨励策として伝え広められたという。鏡花は、郷里の郷土芸能と祭礼を念頭に置いて、この戯曲を構成しているわけである。

さて、上演だが—劇場に足を踏み入れると、まず四本の柱を立てた奥に聳え立つのが、獅子頭ならぬ竜の頭なのに目を疑う。この竜頭は、富姫、亀姫、侍女ら打ち揃って、鯉のぼりを加工した鱗のきらめく衣装なので、鯉が滝昇りして竜と化す故事になぞらえ竜神の眷属の意か。あるいは『夜叉ヶ池』や『海神別荘』の竜神との同質性を示したものか、異種婚に付きまとうメリジューヌのイメージを想起させるものか。確かに洪水を起こす獅子頭ではあるが、「獅子」の台詞はそのままに竜の形象は違和感がある。それをおして、あえて竜を提示した意図を想像すれば、この上演では富姫の前生を匂わせる自害した上臈の挿話がカットされていることと合わせて、富姫ら妖かしを人間界との過去の繋がりを持たぬ自然霊的な魔界のものとし、その魔界は(汎アジア的な水神の形象としての)竜を通じて直接自然界に繋がるもの、と設定したことにあるようだ。

富姫の登場から始まる上演は、約一時間。当然、台本は大幅にカットされており、登場人物も整理されている。侍女らの台詞は「桔梗」と呼ばれる一人に集中させ(コミカルな役作りなので年嵩の奥女中・薄の名は枯れすぎなのだろう)、舌長姥は割愛されて、亀姫のお供は朱の盤坊ひとり。作品の構造上不可欠ではないが、やや寂しい。
演出者(宮城聰)は、舞台と客席を隔てぬ祝祭空間の創造に心を砕いているようだ。富姫、亀姫の客席側からの登場、朱の盤坊の目隠し鬼遊びや、図書之助が天守の下層で踏み迷う場面での客席通路の使用からも、それは窺える。例えば、東南アジアの雑踏で、観客も演者も渾然としたままに繰り広げられる祝祭の演舞の如き物がイメージされているのではないかと想像するのは、原色の衣装の色彩や、絶え間ない打楽器のリズムに煽られてのこと。模型の鷹が滑り降りる仕掛けや、これ見よがしに取り出される生首から滴る血潮が目指すものは、見世物性の復権であり、“広場の演劇”であろう。実際、亀姫と朱の盤坊の帰還の場面で、ロケット花火を飛び去らせる稚気など心躍る“お祭り”の楽しさである。
では、この上演が民俗的な祝祭劇として成功していたか、というと正直物足りない。問題点は、ラストシーンに顕著であるように思う。

どこからともなく現れた工人・近江之丞桃六が獅子頭の目を彫り直して主人公の窮地を救う、という唐突な大団円は不合理な、あるいは不可解なものとして問題にされてきた。だが、羽並も鮮やかな白衣の袂を羽ばたかせて、桃六が中空から舞い降りるこの上演では、不可解なものなど何もない。鷹の恩返し、あるいは自然界の助力が顕在化するばかりである。辻褄は合うが、作為の底が浅すぎないだろうか?
もちろん、獅子を竜に、桃六を鷹に設定することによって「魔界=自然界 対人間界」の構図を明示し、プロットも単純化して祝祭劇を創り出すのも一つの方法なのだが、その祝祭を成立させるには、「お祭礼だと思つて騒げ」という桃六の結びの台詞のとおり、この終幕でこそ祭は最高潮に達せねばならなかったのではあるまいか?しかるに、自然の山々の美しさを唄うフォークソングのようなものが流れて、幕切れは情感に流されてしまう。亀姫の登場とこのラストシーンで使われる歌が、自然界の理想郷の如きイメージの提示であることは理解できるが、劇構造から云うと甚だ説明的なメッセージ性を持つもので、祝祭の熱気も冷まされ不完全燃焼をおこしてしまう。祝祭劇としての物足りなさの原因はそこにある。
竜と鷹を持ち出すまでもなく、魔界と自然界の結びつきは、原戯曲にも充分書き込まれており、例えば、冒頭秋草の名を持つ侍女たちが秋草を釣る場面に始まって、冬枯れとも云うべき失明の闇を潜った後に登場する救世主は、その名も“桃”六であるから、この“春のまれびと”桃六の主宰する幕切れの「お祭礼」を春の蘇りを寿ぐ季節祭と解し、盛大に演出することも可能だろう。尤も、冒頭の秋草釣りはカットされているので、演出者にそのような読解があったわけではないようだ。

対する人間の側だが、図書之助は鷹匠として自然に呼応する資質の持ち主と解されているのだろうが、戊辰戦争の官軍兵か明治時代の憲兵を連想するようなやや洋風の拵え。富姫らのアジア風の装束との対比として異文化との接触を読み込んだのかとも思ったが、追って登場する討手の面々が背中に「蔵」などと書いた商家の印半纏姿とあって、含意は不明である。

作品の物足りなさの原因は、極言すれば、原作者と演出者の作り手としての資質の違いによるところが大きい。鏡花の作品は、曖昧さや多義性、というよりも人間世界の基準で判別不能なものを、判別不能なままに置くことで異界の広がりを垣間見せる体ものである。しかるに、この演出者は明晰さへと向かう。鏡花戯曲を丁寧に読み解いた先年の『夜叉ヶ池』の上演でも、その妖怪たちが毒のない善玉であったように、あるいは、古代劇『王女メデイア』に読み込んだ幾つものファクターが、輪郭も明瞭なままに多層をなしていたように。だが、理に落ちた解釈は時に作品世界を小さくしてしまう。
もちろん、作り手の資質の違いが作品の新生面を切り拓くことはままあり、古典戯曲の新演出ではそれこそが期待されるところだろうが、この上演の場合、先行する演出者の明晰さへの志向が、却って作品の幅を狭めてしまったようだ。
『天守物語』の劇構造は、超越的な獅子頭の存在と、かつて人間世界に裏切られ、それ故にこそ獅子頭の力に与って生きる富姫ら妖かしの中間的な存在、そしてその獅子頭の霊力すら己の鑿一つで自在に操る桃六の絶対的な匠の技の顕現、という「自然対人間」の二元論で割り切れないユニークな非合理性が、やはりその魅力なのである。

台詞を語るSpeakerと動作を受け持つMoverが分離した二人一役の上演手法については、女性の台詞を男性が語るなど、そこから生まれる距離感が非日常的なイメージを掻き立て、非現実的な登場人物と物語を提示するのに魅力的な手法ではある。だが、この作品の場合、昨年上演された『王女メデイア』のように、作品の核心となる言語やジェンダーの問題が二人一役の上演手法と呼応する手の込んだ仕掛けがあるわけではない。むしろ素朴な演劇性の露呈、民俗芸能としての語り物の質感にこそ意味があろう。
しかし、パフォーマンスの成果としては、残念ながら鏡花のテクストに及ばない。昨年の『王女メデイア』では、とかく平板になりがちな翻訳劇の文体と、近代劇的な解釈が見落としがちな言葉の力をSpeakerの語りが豊かにしていたことを評価したが、この作品に関しては逆に、日本の古典芸能の台詞術を想定した鏡花の和文脈の方が、遥かに広い音域と表現の幅を潜在的に要求しているのである。結果、富姫の台詞を語ったSpeakerのデフォルメされた言い回しも恣意的で、却ってヴァリエーションに乏しいものにしか感じられない。安易に現代語化された台本も、語りの魅力を発揮する上では不利に働いた。

テキスト・レジーの疑問もここで付言しておくべきだろう。
例えば、獅子頭を「旦那様」になぞらえての富姫、亀姫のやり取り。「嘘が真に。……お互いに……/何の不足はないけれど、/こんな男が欲しいねぇ。」から肝心の「嘘が真に」をカットしてしまっているのは杜撰な印象である。そのため、「お互いに…」が唐突にすぎるし、まさか、「お互いに/こんな男が欲しいねぇ。」と解したのでは、男日照りの女怪が若い獲物を手ぐすね引いて待っているようで気色が悪い。
そうではなく、この場ではまだ、図書之助の登場は期待も予感もされてはいない。にもかかわらず、戯れに口にした「嘘が真に」の呪詞が効いて、「獅子に似た若いお方」の登場を促すのである。それがこの戯曲の遊びであり、鏡花の言霊というものだ。

評者は初見ながら、この『天守物語』はかつて海外公演を重ね、二人一役の手法を確立した作品である由。
独自の演劇手法を開拓する過程での意義はともあれ、『王女メデイア』や『夜叉ヶ池』が高い舞台成果をあげた現在、(回顧的な意味を別にすれば)SPACはこの旧作を上演する意味があるのだろうか?この程度の習作に近い作品を代表作と呼んでは、演出者に気の毒だ。
なるほど海外公演は好評を博したかもしれぬ、物語も演劇手法の独自性も、判り易く提示されるのだから。だが、極端に単純化された理解は誤解に等しい。鏡花が、その作品を英訳紹介したいとの申し出を、「私の本が読みたいなら、まず日本語を覚えてもらいたい」とあしらったという逸話の意味するところに思いをいたしてもよいだろう。
演出者が現在の力を出し切って、鏡花のテクストに正面から向き合った再創造にこそ期待したい。

(於.舞台芸術公園 野外劇場「有度」 2011.6.25所見)