■依頼劇評■
お祭礼(まつり)だ!——宮城聰演出・SPAC公演『天守物語』を観る
若林幹夫
木々の緑を背にした野外劇場の舞台の中央奥に、祭壇よろしく巨大な獅子頭が鎮座している。「獅子頭」と書いたが、緑の鱗に覆われ、角を生やした竜の形だ。もっとも獅子頭はいわゆる「獅子=ライオン」を象ったものもあれば、鹿(大和言葉ではこれも「しし」だが)や竜を象ったものもある。鏡花の脚本はその形を指定していない。やがて、その前に楽器を手にした役者たちが現れ、太鼓や鳴り物が激しいリズムを刻みながら、儀式の始まりのように踊り始める。どこか異国的なリズムと舞がしばらく続いた後、
——あれ、夫人(おくさま)がお帰りでございますよ。*1
と、舞台上を舞っていたうちの一人、青い衣をまとった侍女・桔梗役の役者(舘野百代)が言う。いや、この書き方は正確ではない。気がつくと舞台の上には別の役者(三島景太)も座していて、声はこの役者から発せられた。所作を演じる“ムーバー”と声を演じる“スピーカー”との二人一役で演じられるこの舞台で、ムーバーが女ならスピーカーは男、ムーバーが男ならスピーカーは女が担当する。動きに特化したムーバーの所作は舞や文楽人形のように、そして異性の言葉を語るスピーカーの語りも義太夫や講談のように、それぞれ様式化されている。からだと声の間の協和音や不協和音に楽音が重なる祭式のような舞台に、「あれ、夫人(おくさま)が…」という声が祭神の来臨を告げるかのように響いて、宮城聰演出のSPAC公演『天守物語』は始まる。
「夫人」というのは姫路城の天守五重に棲む妖怪富姫(ムーバー(以下M):美加理/スピーカー(以下S):阿部一徳)。その富姫が、猪苗代から訪ねてきた妹の亀姫(M:榊原有美/S:仲谷智邦)への土産として城主寵愛の鷹を捕ったことをきっかけに、鷹匠の姫川図書之助(M:大高浩一/S:本多麻紀)と知り合い恋に落ちる。天守に登った証にと富姫が渡した家宝の兜を、盗んだものと誤解され、逆賊として追われ、再度天守にあがった図書之助を富姫は獅子頭の母衣(ほろ)の中に匿い、自らもそこに隠れて追っ手たちを迎えるが、追っ手たちが獅子頭の両目を傷つけると、二人共に視力を失ってしまう。こうして追い詰められた二人は、一緒に死のうとする……、というのが舞台のあらすじである。だが、この悲劇と見える舞台には、最後にどんでん返しが待っている。甘美に死を語り合う恋人たちの前に唐突に、獅子頭を彫った楊子削(ようじけずり)だという近江ノ丞桃六(おうみのじょうとうろく)が現れて、獅子頭の両目に鑿を振るうや、二人は視力を取り戻す。
——世は戦(いくさ)でも、胡蝶(ちょう)が舞う、撫子(なでしこ)も桔梗(ききょう)も咲くぞ。……馬鹿めが。ここに獅子がいる。お祭礼(まつり)だと思って騒げ。槍、刀、弓矢、鉄砲、城の奴ら。
という桃六の宣言と共に、舞台はハッピーエンドを迎えて終わるのだ。
ギリシア演劇の機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)によるかのようなこの解決は、悲劇のクライマックスに向けて緊張を高めて舞台を見守ってきた側からすると、“あんまり”と言えばあんまりである。だがそれが、桃六の高らかに宣言するような「お祭礼(まつり)」だと思えばどうだろう?
歴史的・伝統的な祭礼の多くは、神や精霊や死者などの、大和言葉では広く「もの」とも呼ばれる、人の力の及ばない、けれどもその力を人の世に様々な形で及ぼすとされる存在との交流が、儀礼化され、儀式となったものだ。富姫や亀姫、侍女たちはそうした「もの」(あるいは「もののけ」)である。天守とそこに棲むもののけたちの世界と、下界の人間たちの世界という二つの世界と、それらの世界の境界を越える交流を描いた『天守物語』は、祭礼的な構造をもっている。宮城の演出は、以下に述べるように、その祭礼的な構造が内包するダイナミズムを、時に鏡花の原作を越えて描き出した。
獅子頭の目を傷つけられて失明した富姫は、
——獅子が両眼を傷つけられました。この獅子の力で命を得ましたものは、一人も見えなくなりました。*2
と言う。それは、天守に棲むもののけたちの生命が、主神のようにそこに鎮座する獅子頭の力に支えられてきたということだ。その獅子頭に竜の形を与え、さらに富姫や侍女たち、そして猪苗代の亀姫に鯉のぼりを使った鱗模様の衣をまとわせることで、彼らがみな同じ「もの」に活かされた一族であることを宮城は示す*3。
人であるはずの図書之助が、やはり獅子の眼の傷によって失明するのは、富姫との恋という通過儀礼を経て図書之助も、もののけの領域に入り込んだことを示していよう。それに対して、共に失明した富姫は、高く結っていた髪がほどけ、衣も乱れ、もののけの天守夫人から一人の女性へと変化したかのような姿を示す。再び眼が開いた後で富姫の言う、
——こんな姿を、恥ずかしい。
という台詞も、人との恋を経た彼女の変容を示している。
そこに唐突に現れる楊子彫の桃六は、この舞台では白い鷹を模した装束を着ている。鏡花の脚本にはないその姿に観客の誰もが、富姫と図書之助の出会いのきっかけとなったあの鷹を重ねて見たことだろう。
——翼あるものは、人間ほど不自由ではない。千里、五百里、勝手なところ処へ飛ぶ。
という富姫の言葉が示すように、鷹はこの物語で、忠義や身分といった人の法や掟の秩序に従うことのない、自由と自然の象徴である。城主に囚われ使役されてきたその鷹が、人の秩序の側から富姫のいる「もの=自然」の側へと行ってしまったことが、この物語=祭礼の始まりだった。それは、天守に登ることで人の秩序の外に出て行く、鷹匠の図書之助の行為を予言的に先取りしている。図書之助を天守に登らせて、逆賊の汚名を着せるきっかけをつくった富姫の行為の、意図せぬ結果によって推進されているように見える舞台は、同時にまた、自由を希求する鷹の飛翔によっても推し進められている。捕らえようとする富姫の誘いを契機としたとはいえ、鷹は自らの意思——というより本能——で図書之助の手を離れ、天守へと飛んだのである。
その鷹の姿を宮城は、悲劇を祝祭に変え、舞台を終結に導く桃六に与えた。自ら解き明かすように、そもそも天守の獅子頭を彫ったのも桃六であった。獅子頭=竜に形を与え、命を吹き込んだ職人に、自由と自然を象徴する鷹が重ね合わされる。自然に由来するモノに働きかけてその形を変える「自然」と「文化」の媒介者である職人が、「もの」と人の双方を結ぶ媒介者にして司祭者として現れる*4。鑿を手にした桃六に鷹の装束をまとわせることで、宮城は『天守物語』が内包する神話的な構造を、重層的で両義的なダイナミズムをもつものとしてみせる。
天守を戴いてそそり立つ城が象徴する人の法と掟の秩序が、その遙か上空を舞う鷹が象徴する自然と、自然に由来するものに新たな形と命を吹き込む職人によって相対化され、人とものとの新たな交流と交歓が祝福される。「馬鹿めが」、「槍、刀、鉄砲、城の奴ら」という桃六の言葉は、地上の法と掟の秩序と共にある暴力を祝祭的な哄笑によって笑い飛ばし、新たな世界を呼び寄せようとするかのようだ*5。
『天守物語』のそんな祭礼(まつり)としてのあり方を、宮城の演出とSPACの舞台はみごとに引き出し、観客たちの前に示してみせた。だから、その瞬間には「あんまり」にも思えた桃六の登場とそれによる解決が、すぐに然るべきものと感じられ、その後には気持ちよく客席から立ち上がることができたのだ。これは、「ふじのくに⇔せかい演劇祭」という祭の舞台なのだ。人の世を作り出しているからだも言葉も、そもそもは自然に由来する。人の世はものとしては自然であり、文化や社会としては人為である。演劇は、そんな日々の営みの中にある境界と、それをはさんだ行き交いを見せ、聴かせ、感じさせ、揺るがせ、騒がす祭礼としての側面をもつ。宮城とSPACは、そんな演劇の祭礼性を私たちの前に、一夜呼び寄せてみせたのである。
*1 台詞の用字は岩波文庫版『夜叉ヶ池・天守物語』(1984年)にしたがった。
*2 この部分の台詞は原作とは異なる。原作では「この精霊(しょうりょう)で活(い)きましたものは」とある部分を宮城は、「この獅子の力で命を得ましたものは」と変えている。
*3 鏡花の原作で図書之助を追って天守に登った追っ手の一人が語るところによれば、富姫はそもそも、二代前の城主に捕らえられそうになって自害した貴人の婦人である。地主神の宮で家来に捕まり舌を噛み切った彼女の恨みが、社に奉られた獅子頭に乗り移って毎秋洪水を起こしたために、「水を出さば、天守の五重を浸(ひた)してみよ」という城主によって、獅子頭は天守五重に上げられた。宮城はこのことを説明する台詞を省略することで、物語の神話的構造を改編している。
*4 鏡花の原作によれば、富姫となる貴人の婦人は、髪に牡丹の刻まれた櫛を刺していた。その櫛もまた桃六の作によるものという。
*5 鏡花の生前には上演されることがなかったこの戯曲が発表されたのは、第一次世界大戦中の1917年である。
■執筆者紹介
若林幹夫(わかばやし・みきお)
早稲田大学教授。専門は社会学。著書に、『漱石のリアル』(紀伊國屋書店、2000年)、『増補 地図の想像力』(河出書房新社、2009年)、『〈時と場〉の変容』(NTT出版、2010年)など。