劇評講座

2012年6月19日

■準入選■ 渡邊敏さん 『グリム童話~少女と悪魔と風車小屋~』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作)

■準入選■

渡邊敏

 グリム童話やシャルル・ペローの童話には、こどもの頃の絵本に始まって、長い間親しんできた。お姫様に王子様、魔法使いに巨人、毒りんご、豆の木・・・などなど。何度読んでも楽しいのは、苦難の果てにはハッピー・エンドが待っていて幸福感が味わえることと、残酷なものや、わけのわからないもの、深遠なものが混じっているせいかも知れない。

 先週見てきたお芝居は、グリム童話の「手なし娘」をもとにしたもの。脚本はフランスのオリヴィエ・ピィ氏。SPACの舞台は折り紙づくりの純白の世界だった。折り紙の木々や動物には無邪気さや遊び心とともに、洗練された神経の細かさも感じられて、こちらの神経もぴりりとする。現代のグリム童話の舞台には、昔話の大らかさや土の匂いはなく、美しく静かで、ひんやりしている。
 舞台も衣装もすべて白の、白一色の世界に、様々なものが浮び上がる。白は乙女の純粋さや無垢のように輝き、また、毒気や悪意のようなものも、白をバックにじわじわとにじんで来る。登場人物は生身の人間というより象徴的な存在のようで、ときどき紙芝居の絵みたいに停止したり、操り人形みたいに動いたりする。
 英語版のせりふも片隅に表示されていて、見ていると英語の方が日本語より低温に感じられる。この真っ白な舞台に英語のせりふが響くのを聞いてみたいと思った。

 お芝居は、粉引きの男が悪魔と契約する場面から始まる。薄闇からそおっと立ち上がる悪魔。男は、悪魔のささやきに、小声で、モールス信号みたいに単調に答える。心が死にかけているみたいだ。
 悪魔に命じられると、男は、娘が描いた魔除けの円も消してしまうし、とうとう娘の両手も切り落としてしまう。こういうことって、もう、私たちの日常になってしまっている、と思った。わが子の将来のために(あるいは自分のために)親が子どもを作りかえる。または、自分で自分の一部を譲り渡す。金持ちになった粉引きは、手を失った娘に、このお金で一生面倒を見ると言う。でも、娘はひとり、放浪の旅に出る。本当の人生、本当に生きるということの象徴だと思う。

 グリム童話の書かれた時代には、この物語にはそのままの意味があったかもしれない。ヨーロッパには魔女狩りや魔女裁判があったから、「悪魔との契約」は現実で、最後には聖なる力が勝つというお話。
 現代では、この物語は、社会のシステムや、世界を覆う不安感、無力感に流されずに、「本当に生きる」ことをすすめているようだ。たった一人で森の中をさまよう時、頼りになるのはもともと体の中にそなわった知恵、直感、内なる声のようなもの。「私の足は私より賢い」、そう言って森に入っていく娘。

 そうは言っても、今は、悪魔の誘いにのる方が当たり前に見える。人生に妥協はつきもの。自分の心に問いかけ、心の声を聞くのはやめて、大きな力に従えばうまくいく、楽に生きられる。それは、賢い処世術かもしれない・・・でも、物語は注意する。両手を切られちゃうよ、と。
 ひとりでさまよい、自分の足で歩いたごほうびは、成長、知恵。物語の結末、娘には新しい両手が生えていて、彼女自身も、森の女王か、女神のように輝かしく、威厳と知恵に満ちている。

 森は、自分の心とか、魂の深さを表していると思う。私にとっては、森に入るのが一番難しそうだ。ずっと自分の外に気を配って生きてくると、内なる声を聞き、足にまかせて歩くなんて、よくわからない。たぶん足だって麻痺しているだろう。森へ入るには、まず、心の中の要らないものを捨てなくちゃ。