劇評講座

2012年11月6日

■準入選■【「人形」から「人間」へ―『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』(宮城聰演出)を観て― 】番場寛さん

■準入選■

「人形」から「人間」へ
 ―『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』を観て―


 番場 寛

 もうかなり昔にパリでその頃評判だったピーター・ブルック演出の『マハーバーラタ』を観たときとは違い、今回の公演では最初から最後まで退屈する瞬間はなかった。SPACの劇では、その前身である「ク・ナウカ」のときから、演ずる人が語らず演技だけを行い、後方に座った人が台詞だけを言う演出は文楽を思わせる。演劇は普通どれだけ演技であることを忘れさせ、リアルな言動であるかのような錯覚を観客に与えることができるかを目指しているのに、この劇団での、俳優が生命を帯びた人形のように動くさまは、演劇の歴史を遡り、演劇の原型そのものに迫ろうとしているかのようで新鮮であった。登場人物が、いかにも作り事であり、絵空事であることがこれ見よがしに演じられている様は、そこで日本の神楽や祭りの儀式を観ているかのような臨場感を与える。 
 今回の『マハーバーラタ』では、昨年鳥の劇場にて上演された『王女メデイア』よりも更に複雑な構造をとっていた。神々なのだろうか、面を被った人物たちと、動物の面を被った人物、張り子の動物たちなど、まるで人形が人形を使っているかのような重層構造をとっていた。
 なぜ演出の宮城聰はこうした「作り物」的な演出を意識的に推し進めているのだろうか?その演劇的効果とはいったいどういったものなのだろうか? それはこう思う。いわゆる「劇を演じる」という意志と行為を可視化することで、「演ずる」という行為を隠すのではなく、逆にそれを露わにすることによって生まれる感動を狙っているのではないか? ちょうどそれは作物の豊穣や民衆の健康と安全を神に願って行われる宗教的儀式に似ている。実際、能も大木の前で演じられ神に捧げられたことがあると能楽師から伺ったことがある。古代ギリシアで、劇が演じられたときもこんなだったのだろうか?

物語の形態学
 さて、劇の内容についてはどうだろう。美しい妻と二人の子を授かり、国を支配していたこれ幸せの絶頂の王がふとした気の迷いから賭博に浸り、自分の持っていたすべてを失う。自分のふがいなさに嫌気がさし、自分と一緒にいては不幸になるばかりと考え、眠っている妻の服の片袖をこっそり切り取り、それを持ったまま流浪の旅に出る。様々な変遷の末、賭に勝つ魔力を授かり、最後はまた全てを取り戻すという波瀾万丈ともいえるし、失ったものを再び取り戻し、離別した主人公たちが再会するという点だけみれば、ごく単純な話にも思える。ロシアの昔話を分析し、すべての話を登場人物の機能に分解し、その構造が全て人物の31の機能の組み合わせによって成り立っていることを証明したウラジーミル・プロップの公式はおそらくこの『マハーバーラタ』にも当てはまるであろう。ナラ王が最後に妻と再会し、賭け事に勝ち国を取り戻すことは、「発端の不幸・災いか発端の欠如が解消される(定義は、「不幸・欠如の解消」。記号は、K)」(『昔話の形態学』)という機能に分類できるだろう。
 ではこの宮城聰の演出の素晴らしさはどこにあるのであろう。一つは打楽器の演奏者の音だけでなくその身体性までもを観客に披露したことであり、台詞を語る人と演じる人を分けるだけでなく、時には演じる人までもが自分自身の台詞を発するという普通の劇で行われている当たり前のことが、今回の劇では驚きとなって感じられる。

野外劇場という「場」の特異性
 演劇では、いったいどこまでが劇場なのだろう? 舞台は勿論だが、劇場の建物、それを取り巻く環境全てであろう。野外ステージの場合は空の色、暗くなってからは月の光やライトを当てられた木々、冷たい夜風、虫や鳥の鳴き声、客席の赤ん坊の泣き声さえも、まるで京都の庭が採用している「借景」のように、観客の反応までも含めたその場で起きていること全てが装置として機能していた。この劇の本質は、張り子の動物や仮面など、これみよがしの「作り物」と、人形のようにうごく俳優と、それらを説明する「語り」を通して、「ナラ王」の物語を観客自身が完成させようとする想像力そのもののうちにあるのだと思う。
 美加理の演ずる美しい王女は眼が大きく表情を変えないか、変えていても見えないように演出されており、見えない人形遣いによって操られているかのような動きに見える。そうした語りの中で動く人形が突如として生々しい肉体を露わにしたのが、没落したナラ王が彼女のもとを去るとき、名残として眠っている彼女から切り取り持ち去る服の片袖を切り取ったときである。白く肉感的な彼女の腕がさらされたとき、人形としての可愛らしさ、動きは変わらないまま突如として彼女は人形から人間の女へと変身した。それは今回の作品で、「語り手」とは別に王女を演じる美加理自身の口から自らの台詞が発せられた演出とも重なる。「形態学の公式」に当てはまる機能を果たす人形の物語が、一挙に人間の物語へと変貌する瞬間をも見せてくれた。

 (参考 ウラジーミル・プロップ 北岡誠司他訳『昔話の形態学』 水声社)