劇評講座

2012年11月6日

■準入選■【ジュリエットよ、なぜあなたは…?― オリヴィエ・ピィの『<完全版>ロミオとジュリエット』を観て―】番場寛さん

■準入選■

ジュリエットよ、なぜあなたは・・・?
 ― オリヴィエ・ピィの『<完全版>ロミオとジュリエット』を観て―

番場 寛

 今回のオリヴィエ・ピィの演出には冒頭から驚かされた。ジュリエットはそれを演じる女優があまりに成熟しているばかりか、忠実にフランス語に翻訳されている筈の彼女の台詞を聴いていても、彼女がどうしても14歳の乙女には見えない。両手を大きく広げ、ヒステリックに感情をむき出しに激しく叫んだり、恋心を告白したりする姿は、『ハムレット』のオフィーリアが死なずに年を取った姿を想像させる。
 ハムレットは、自分の母親が夫の死後、すぐその夫の弟と再婚したせいだろうか、純粋可憐なオフィーリアに対し、彼女もやがて性を露わにする「女」になるのだと嫌悪感をむき出しにする。
 しかしこのピィ演出の『ロミオとジュリエット』を最後まで観ていると、ハムレットだったら抱いたかもしれない、その「女」に対する嫌悪感は克服されなければならないものなのだと説得されるほど「女」の成熟さの魅力が表れていた。
 また、畳みかけるかのように強くて、速い発声法は、シェークスピアの台詞の見事さを際立たせていた。「ロミオ、あなたはなぜロミオなの?・・・」という有名な台詞は、今までの他の舞台や映画で何度も聞いていた筈なのに、今回の女優の口からそれが発せられるとき、それは恋の自己陶酔を超えて、彼女とロミオの置かれている状況、つまり彼が自分の家が対立しているモンタギュー家の息子であるという状況への攻撃的な問いであると聞こえる。 

「移動式バルコニー」という舞台装置と一人二役
 舞台装置は驚くほど簡素であった。演奏は舞台上に置かれた一台のピアノのみで行われているだけなのだが、それも移動させられバルコニーに上がるときの踏み台とされ、そこを登場人物が上がる仕草がそのまま鍵盤を鳴らすという工夫もされていた。ロミオが人目を忍んでジュリエットに会いに行く場面で使われるバルコニーは横の階段で上がっていくようになっており、それは極めて効果的に機能していた。つまり、舞台装置は観客の想像力により様々な場を表すよう移動し、据えられる。
 互いに愛を誓って「婚姻」を交わしたその場は、そのまま最後に毒を仰ぎ、命を終える場ともなり、赤みがかった透明なスクリーンが降りることで、他の人物が死者を見つめる「墓場」ともなる。それどころか黒いそのバルコニーの壁はチョークで登場人物が言葉を記す「黒板」の機能をも果たしていた。発語されたとたんに消え去るフランス語の台詞やそれを簡略化して映し出される字幕も数秒か数分後には消え去るのに対し、書かれた文字として舞台に存在し続ける言葉は観客にその意味を考えさせるに十分な時間を与えた。
 そのうちの一つはLa nuit est blanche et noire(夜は白くかつ黒い)であった。これは「夜は遅すぎる。いや、むしろ早すぎる」という台詞に対応するのだろう。「夜」と「朝」は連続しており、いつから「朝」なのかは曖昧であるのに言葉になったとたんに明確に分節されてしまう。この演劇全体が「夜と朝」と同様に「愛と憎しみ」、「生と死」等の対立によって成り立っていることが分かる。
 そのシェークスピアの戯曲そのものが持っている、対立するものの転換という技法は、二人の登場人物を一人の俳優が演じるという演出にも見られる。モンタギューと息子のロミオを同じ俳優が演じるのは、家系を際立たせるためだと理解できても、ティボルトが死んだとき、喪服に身を包みその死について語る伯母であるキュピュレット夫人を同じ男の俳優が演じたときには驚かされた。つまり自分の死を嘆く役を自分で演じていることを観客に見せているのだから。ここで顕著なように、ピィは人物のリアルさではなく、あくまでシェークスピアの台詞を最大限に生かすことに演劇のリアリティを求めているのだと分かる。

「死は存在しないLa mort n’existe pas」
 舞台装置の壁にこの「死は存在しない」という言葉が書かれるのは二人の主人公が死を迎える最後の場面である。これは普通だったら二人は死んでも、愛は生き続けているという意味に取るべきなのかもしれないが、なぜかこの言葉を見たとき、J.ラカンの「性関係はない」という言表を思い出した。
 ラカンの「性別化の式」と呼ばれる図式では、男は「欲望の原因対象」と呼ばれる「対象a」を求め、女は「ファルス(記号となった男性性器)」と「<他者>に欠如しているシニフィアン」を求めているという点で、男女では欲望の向かう対象が異なり、その欲望は互いに交差することはない。ではこの劇のロミオとジュリエットの間には、「性関係」はあるのだろうか?
 婚姻はしても二人にもやはり「性関係」はないと思う。最初バルコニーで逢って二人が接吻をするとき、それを「罪」と名づけ、口で相手の「罪」を自分に戻すと言い、接吻を繰り返す。その口を通じての「愛」の交換は、敵を欺くために毒を仰いだロミオを見たジュリエットが、そのロミオが飲んだ毒を自らに移そうとする仕草となって反復される。
 「~はない」という言表は「~はある」を前提としておりそれに抗い、その不可能性の追求という人間の夢を表すものであり、演劇の本質そのものを表している。