劇評講座

2012年11月6日

■準入選■【『THE BEE』(野田秀樹演出)】佐倉みなみさん

■準入選■

佐倉みなみ

 「THE BEE」、この物語にまず浮かぶ言葉は「不条理」である。そして自分の中で既に確立し当たり前となっている善悪、正義、悪、倫理、道徳、それら全ての概念に疑問を抱かせる。

 物語は平凡で善良な市民である井戸が、ある日突然妻子を脱獄犯である小古呂に人質にとられるところから始まる。彼は何も悪いことはしていない。その日は息子の誕生日で井戸は仕事終わりに誕生日プレゼントを買い、家路へ急ぐ家族思いの温厚な人物である。平凡だが慎ましく幸せな生活を送っていた彼は、ある日いきなりその日常をぶち壊される。
 
 井戸も観客もどうして彼がこんな不幸に遇うのかわからず、わからないまま物語は進んでいく。家族を救いたい一心で、警察に、小古呂の妻に、家族を解放してもらえるように小古呂への説得を頼む。しかし警察は井戸の懇願を端から聞く耳を持たない「警察が解決する」という固定概念で固められたマニュアル男。小古呂の妻は自分も井戸と同じ歳の子供を持つ親でありながら、自分のこと以外知ったこっちゃないという自己中心的な女。

 井戸は自分の目を疑う経験をする。誰しもが当たり前だと思う勧善懲悪は、現実では起こらない。ただ無慈悲に事件は起こり巻き込まれていく。頼れる正義など絵に描いた餅、責任や罪悪感など皆無の無関心な当事者。それらは次第に井戸を別人へと変貌させる。そして井戸は自らも犯人の妻と子を人質にとり加害者へと変わる。そしてマスコミや警察を利用しながら、小古呂の妻を強姦しその息子の指を切り、小古呂への復讐と家から去ることを求める。
 被害者でも加害者になったら、加害者と同じ悪である、と思うであろう。しかし、この舞台で一体誰が悪なのであろうか。警察が井戸の懇願に耳を傾けていれば良かったのか?小古呂の妻が当事者としての意識を持ち小古呂の説得に初めから応じていれば良かったのだろうか?しかし、井戸自身加害者になるにつれて実感していく、「俺は初めから被害者を演じることができなかった。だから加害者になるに徹した。そして本当はこれが本来の自分の姿ではないのだろうか」と。ならば初めから加害者の芽を持った井戸が悪かったのだろうか。しかしそもそもこんな事件が起こらなければ井戸は善良で温厚な市民でいられた。ならばこの事件が起こったという事自体が悪であり、井戸を加害者へ導いた運命こそが批難されるべきことなのだろうか。しかし運命など批難できない。ならば一体何が、誰が悪いのであろうか。しかし井戸の人生には何の落ち度もなかった。因果応報とは到底いえない。理不尽である。
 しかし現実とはそもそも理不尽なものではなかったか。観客である私たちはそこでふと気付かされる。井戸という人物は決して舞台上の人物ではないと。現実は正義、悪、善、それらの概念はわかりやすく線引きされてはいない。いつもそれらは表裏一体であり、明暗混沌とした社会で私たちは生きている。そして一歩、何かをちょっと踏み外せば、それらは逆転し、時には被害者が加害者へと変わってしまうのだ。だがしかしその一歩すら明確ではない。朝が昼になり夜になるように、徐々に、ゆるやかに、踏み外してしまうのだ。自分の意思ではなく、見えない周りの、何かの、もしかしたら自分の潜在意識などの力によって。
 この舞台もそうなのだ。井戸も、小古呂も、警察も、小古呂の妻も、そして井戸の運命さえも、そのどれもが加害者であり被害者なのだ。悪も正義も善も全てが混沌と入り混じるこの世界に、果たして正解などあるのだろうか。
 序盤で感じた井戸への憐れみの気持ちは、いつしか井戸への恐怖と嫌悪感に変わっていく。小古呂の妻への嫌悪感や怒りは井戸が変貌するにつれ憐れみと同情に変わっていく。そして次第にわからなくなる。何が正しいのか。
 小古呂の子供も妻も殺してしまい、もう小古呂に送る指がなくなった時、井戸は叫ぶ「次は俺の小指を送ってやる。」もう井戸自身、答えなどない。ただ繰り返される指を送る毎日をまた送り続けようとする。目的は一体なんだったのか?不条理からスタートするこの物語に、正解など用意されず、つきはなされるように演目は終わる。
 被害者が加害者になり、手段がいつしか目的となり、強姦が日常に、切断が当たり前になる。そして段々井戸の人物像が輪郭を失っていく。何もわからなくなる。 
 
 「THE BEE」は恐ろしいほどの湿度と熱く冷めた狂気を身にまとった作品である。しかしその狂気と湿度こそ、私たちが日々現実で対面しているものであり、井戸は私たち自身の投影であると気づく。
 問題提起をされているようで、逆にこの作品自体がもう答えを私たち観客に投げかけているのだ。その答えを私たちはもっと掘り下げ、自分自身の答えを見つけなければいけない。その答えはゆっくりと、朝が昼に昼が夜になるように、形を変え生きる意義へと変わっていく。