劇評講座

2012年11月6日

■準入選■【まいりました、赤い封筒】小長谷建夫さん『THE BEE』(野田秀樹演出)

■準入選■

まいりました、赤い封筒

小長谷建夫

 筒井康隆のファンである小生にとって、なかなか興味深くかつ刺激的な舞台であった。
 尤もそれ以上に静岡の野田秀樹ファンにとっては長く渇望していた来訪だったのかも知れない。なにしろ機関銃のような台詞のやりとり、怒涛の如く転換する舞台や配役、これらに加え野田秀樹の驚くべき身体の柔らかさも、中年らしからぬリズム感溢れるダンスまでをも眼前にすることができ、まさに野田ワールドにどっぷり浸かった70分だったからね。
 それを言ったら宮沢りえちゃんファンには、これはもう興奮の極み、ほとんど絶頂感を味わった舞台であったことだろう。かく言う小生も、ポカリスエットのCMでの鮮烈なデビュー以来のりえちゃんファンでもあるから間違いない。あの妖艶さ、あの庶民性、あの啖呵。そういえば前半に足の長い警官が出て来るが、あれもりえちゃんだったのかな?印刷物の配役には載っていないから最後まで気付かず残念な限りだ。
 ともかくも離婚騒動で落ち込んでいるのではないかと危惧していたが、全く心配無用のようで、りえちゃんのことを心配するよりも自分の前立腺のことでも心配しようと思った観劇の夜であった。
 さてこのまま俳優論をやっていたら、確実に劇評失格だ。話を筒井康隆論から始めよう。
 筒井の毒気に満ちた作品が演劇人の嗜好に合い創作欲を刺激する理由はよくわかる。なにしろ筒井が各作品で取り上げるのは人間の隠し持つ狂気だ。どの作品も狂気が狂気を呼び、それはスパイラル状に高まり深まる。これが演出家の関心を引かないはずはない。
 毒気に満ちた作品と言ったが、その毒は決して筒井の毒ではない。読者の心に潜む毒であり、観劇者の毒なのである。筒井はそれを覆っていた常識や世間体や倫理道徳を取っ払い、白日の下に晒したにすぎない。
 筒井の悪い所は、いやいい所なのかも知れないが、狂気がとどまることなく収拾がつかなくなるまで放置してしまうことだ。
 常識や世間体にがんじがらめの我らは、物語が破局にいたる過程を寛容の精神で耐えるのだが、最後にはなんとか収拾してくれるだろうとの淡い期待を持ち続けるのである。全く我らは懲りない予定調和信奉者なのだ。
 一方筒井に収拾しようなどという気はないから、読者あるいは観劇者は狂気の高みに登りつめ、突然梯子を外されてしまうのである。いやもともとそこに梯子などもなく、スパイラル状に高まる興奮、男女がよく経験するあれだな、その上昇気流に乗って行っただけだから、クライマックス即転落死となるわけだ。
 筒井ファンを長く続けているとこの転落感がたまらなくなる傾向がある。
 野田秀樹はこの狂気を忠実に、いや更に増幅して表現した。小生が野田作品を観たのは、はるか昔、シアターコクーンでの「贋作 罪と罰」一回こっきりだから、あまり評論もできないのだが・・・その時も激しく転換する舞台で大竹しのぶが走り回っていたのを思い出す。
 大竹しのぶは不思議な女優だ。小柄なくせに、あの存在感。可愛いくせに、あのふてぶてしさ。そういえば宮沢りえちゃんだって負けてはいない。こんなタイプが野田秀樹の演出家としての五感、六感を刺激するんだろうな。
 いけない、いけないこのままだとまた女優論になってしまう。元へ戻ろう。
 文学作品や演劇の中では子供の指を折ったりしてはいけない、子供を殺してなどいけないという規制があるわけではないが、読者、観劇者には絶対にタブーとしてある。そんなタブーを次々と破る筒井作品。このタブー破りをさらに残酷に再現した野田。
 ポキリ!ポキリ!と。
 そこまでやっちゃいけない!と叫びたくなるな。
 そういえばBEEは被害者が加害者へ転ずる境目に登場するのかな。もう一度よく見ないとわからないね。タイトルになっているくらいだから極めて重要な役割をしていることは間違いない。このサラリーマンは虫嫌い、とりわけ蜂の類が嫌いなのはわかった。いや嫌いなだけでなく、あの羽音が生理的不快感とともに彼の狂気を増幅することもわかった。
 BEEが原作に登場してきた記憶はないから、きっと野田秀樹のメッセージがこめられたアイテムなんだろう。蜂の拡大映像が出てきたのは、主人公が血肉にまみれ始めた頃だったろうか。
 この芝居が、日常と非日常、正気と狂気、被害者と加害者などの境目あたりをテーマにしていることは間違いない。とするとBEEの出現と登場人物達の意識転換との相関関係を見落としている小生に劇を語る資格はないね。まあそれを言っちゃお終いだから、ここは演出家も井戸も蜂が大嫌いで、プッツンするきっかけになっていることがわかったというだけでいいとしよう。
 狂気の身体切り刻み惨劇の中、登場人物たちは一生懸命日常の行為を繰り返し、精神の均衡を保とうとする。まな板を叩く包丁の音が今も残るね。男女の性行為だって、最初はレイプまがい、いやしっかりしたレイプだったが、そのうち和姦だか習慣だかわからなくなっていく。放出を表すピストルの音も、徐々に湿り勝ちになるのも演出者の実感なんだろうな。
 高みに上り詰めたと思う狂気がまだまだ途上に過ぎないと思い知らされるのが、ドアの隙間からポトリ、ポトリと届け続けられる封筒だ。鉛筆の指折り音もそうだが、封筒の邪悪の赤さにも本当にまいったね。演出家の鋭敏な感性に脱帽である。
 さて原作者も演出家も、我ら小市民が自らの狂気を剥き出しにされて戸惑っているのを見て、にやにやと笑っているに違いないが、小市民だってそう初心ではない。
 井戸が加害者となってその悦楽に耽る時だって、それでいいのだと心の中で歓声を上げている者、指切りの場面で、次ぎは鼻を削げ、目玉をくり抜けと煽り立てている者といろいろなのに違いない。いや小生がそうだと言うのでは断じてないが。
 ともかくも終演後、覆いを無理やり剥がされた心や感性に冷たい外気が当たりヒリヒリ痛むのを感じながら、劇場を出て誰もが日常に帰っていくのだ。そこは昨日までの日常とは何かが確実に違っているのだがね。