劇評講座

2012年11月6日

■入選■【「知の欲望」の解放へ ―『春のめざめ』(オマール・ポラス演出)を観て―】番場寛さん

■入選■

「知の欲望」の解放へ
 ―『春のめざめ』を観て―

番場 寛

 アフタートークのときに演出のオマール・ポラスへ「この劇のテーマは確かに書かれた18世紀や初演された時代においては、リアルであったかもしれないが、学校でも性教育がなされるようになった現代においてもこの劇を演ずる意味があるとしたならそれは何だろう?」と質問をした。それに対しポラスは、この劇で描かれた教育や道徳が子供を抑圧している状況は現代においても何ら変わっておらず、これは極めてアクチュアルな劇なのだと答えた。その意味を考えてみたい。 
 舞台には手前に一部が破壊されたコンクリートの建物の残骸があり、その後ろにはおそらく社会、つまり大人たちの世界の象徴としての枠組みだけの建物が見え、さらにその背後には森が広がっており、これは童話的な子供の世界を象徴しているのだろう。その三つの世界を横断する問題は「知」と「快楽」である。「知」とは子供たちの純粋な疑問、つまり「赤ちゃんはどうして生まれるのか」という知への欲望であり、大人たちが子供たちに押しつける、ギリシア語やラテン語などの教科としての「知識」である。
 モーリッツは落第させられるという恐怖におびえて自分の望んでもいない知識を詰め込もうと苦しんでいる。子供たちの「知への欲望」は「性」に対するものだけではなく、メルヒオールが、「何のためにこの世に生まれてきたのだろう」と言い、モーリッツが「何のために学校に行くのだろう」と問いかけるように極めて哲学的で真剣な問いでもある。
 しかし大人たちは子供たちの知の欲望には答えず、知りたくもない知識の習得を強いる。モーリッツが自殺した後残されていた卑猥とみなされた論文を書いたという教師たちの非難に対し、メルヒオールは「私はあなた方のよく知っていることをそのまま書いたに過ぎません」と弁明する。つまり大人の世界では当たり前のこととして流通している「知」を子供に対しては禁じることの不条理がこの場面では際立たせられている。
 赤ちゃんは愛している男の人と結婚することで生まれるのだという母親の説明を信じたヴェントラはメルヒオールの衝動に身をまかせた後も、「愛してない」し「結婚もしてない」のだからと安心したまま妊娠してしまう。そして堕胎薬を処方されたことで死んでしまう。これは大人が正しい「知」を与えなかったことにより子供の受ける被害と言える。
 また、「春のめざめ」というテーマが会話としてではなく、劇の演出として巧みに描かれているシーンがあった。それはヴェントラが見つめる中、彼女が遊んでいた木馬が遠ざかっていき、時間をおいて再び近づいていくシーンである。遠ざかっているとき手を差し伸べていた少女は、再び自分の元に戻ってきた木馬に跨がるとまるで大人の女のように木馬を揺すり、快楽の表情を浮かべる。
 またトークで、子供たちは土の上を裸足で歩き、大人たちは靴を履いていることについて、ポラス自身が説明したように、土は子供の世界を表し、その世界の侵入を恐れるから大人は靴を履くのだ。しかし劇の最後の方で観客を驚かせ、一瞬何が起きたのか戸惑わせる場面がある。それはそれまで子供たちを非難し、「自殺病」を防ごうと思案、議論していた教師や親たちが突然長い髪のかつらを取る場面である。かつらをとると彼女らは、一人で母親や教員を演じていた姿から少女へと変身する。移動公演という制約上の理由から一人で何役も演じたのでないことは、観客の目の前でかつらをとったことで明白である。ずっと昔にタディウシュ・カントールが「死の教室」という作品で行っていた演出を思い出させる。それは今にも倒れ息絶えそうな年老いた老人たちが背中に自分の幼年時代を表す人形を括りつけ登場した場面の効果に似ている。つまり実際は舞台で年月が流れる時間を表すべきところを、一挙に同時に表すのだ。
 この「春のめざめ」では、純粋な「知への欲望」を抱いていた子供たちも、年月をへるうちにはいつの間にか、その「知への欲望」を抑圧し、別の子供たちが欲しない知を押しつける大人へと変わるのだということを瞬時に見せている。
 墓地をメルヒオールが歩いているとき、幽霊となったモーリッツと再会し言葉を交わすが、その墓地の壁にはムンクの「叫び」を模した落書きが描かれており、そこにはcondemned to AGONY(激しい苦痛へと有罪を宣告されている)という言葉が添えられている。今回の上演で、墓地の墓標を見ながら、埋葬されている者の名として、この戯曲の作者のヴェデキントやフロイトやニーチェの名が発せられるが、これはフランスで上演されたときの脚本にはない。さらに子供たちを前にしてメルヒオールが言う「行け」と字幕に訳されたフランス語のSortez !も、もとの脚本にはないもので今回付け加えられたものと分かる。これは「大人たちの世界」、社会を成り立たせるために「知と性の欲望」を抑圧している世界から「外へ出ろ」という意味に訳すべきではなかったろうか?