劇評講座

2012年11月8日

■準入選■ 【反復される「踊ることへの欲望」―『おたる鳥をよぶ準備』を観て― 】番場寛さん(構成・演出・振付:黒田育世)

■準入選■

反復される「踊ることへの欲望」
 ―『おたる鳥をよぶ準備』を観て―

番場 寛
 サッカーではキーパー以外は手を使うことを禁じられているように、ダンスでは、言葉は禁欲的にしか使わない。しかしこの作品では、冒頭から水色の水着を着た女性が微笑みながら「わたしダンサーになるの」と大声で発しながら踊ることを繰り返している。
 遠くの木々の近くの高いやぐらの上に設けられた小さな舞台では一人の女性が座ったまま、何か、白い布か紙の切れのようなものを自分の体に貼り付けていく。黒田育世の振り付けの特徴が次第に浮かび上がってくる。舞台に立っているダンサーたちが、同時にあるいは時間をずらして同じ動作をする。一人一人のその踊りを観ていると、手脚を十分に伸ばし、体のどちらかの側を軸にしてクラシック・バレーように回転する動作が目につく。動きのヴァリエーションもあくまで曲線的な動きを中心に構成され、いかにも女性だけの集団の踊りだなと思わせる。
 人間の手脚の動きでダンスと呼べるような動きの組み合わせはいくつあるのだろう?屈曲、振動、回転、はためかせる動き、たたく、さする、…等、純粋な動きとしては無数の組み合わせがあるとしても、ダンスとして観るに耐える動きはそれほど多くはない。ではそのダンスをダンスならしめている動きの本質とは何か?それはG.ドゥルーズの言葉を借りれば「差異と反復」ではないだろうか?ある偶然の瞬間的な動きがダンスとして意味を持った動きと感じられるのは、ある「反復」が感じられるよう身体が制御されている時だ。そしてその「反復」が「反復」として知覚されるのは、「差異」との対比によってである。あらゆる芸術はこの「差異」と「反復」によって成り立っているのであるが、最もそれを明確に示すのがダンスだと思う。
 今回の公演でもその「反復」が、観ていて苦痛に感じられるほど執拗に繰り返された一連の振り付けがあった。まず一人の女性が「あなたの夢を叶えてあげましょう」と言い、別の女性がそれを見て、「わたしダンサーになりたいの」と言うと相手は「わたしも」と言ってその女性に抱きつく。その傍らには横たわったままの女性がおり、その女性にまたがり、性交のように喘ぐ。別の女性が順に同じ動作をやり、次に立ち上がると踊りながら「わたしダンサーになりたいの」と叫ぶ。
 また、舞台装置において執拗に反復されたのは、女性たちが各自時間をおいて脱ぎ捨てた衣装を舞台前に置かれたロープに結びつけていたのだが、それを舞台両脇に立てられた 支柱に結びつけると上まで万国旗のように掲揚し、しばらくたつとそれを落下させ、また 掲揚することを繰り返す動きである。
 この一連の動作はどう考えれば良いのだろう。これは彼女たち、つまり脱いでは着替えることを繰り返す、衣装に象徴される「女性性」の顕揚ではないだろうか?
 また、舞台後方に立てられた大きな看板には最初世界地図が貼られていた。それを一人が剥がし、時間をおいて再び貼り付けたが、何度か鳥が空を舞う翼の動きがなされたことと併せると、世界で踊りたいという彼女たちの欲望を表しているのであろうか?
 最後にその看板の一部が剥がされるとそこにはリンゴが一個だけ下がっているだけの葉のない木が一本描かれた絵が現れる。リンゴという果物は俗的にはイヴを連想させずにおかない。黒田の言うように、ダンスと一体となるということは、人間としては「死」であり、それは結果としての果実をもたらすという意味なのだろうか?
 最後に黒田一人が、客席の狭い空間で踊ったのだが、それはそれまでの集団での振り付けとは明らかに異なっていた。特に手先だけをぷるぷると振動させたり、背を向けて手を後ろに回したりする動作は、彼女がついに「おたる鳥」になったのかと思わせた。   
 作品全体を貫いている「女性性」がこれ見よがしに示されたのが、最初舞台前中央に置かれた乳房だけの白いトルソーによってである。そのトルソーを一人が持ち上げ天にかぎす。強い光があてられその乳房が白く輝いたかと思うと次の瞬間にはそこから緑色の血が滲み出たのかと思われるほど徐々に緑色に染まっていく。再びそれが下に置かれたときもとの白に戻ったことからそれは緑色の照明を当てられたせいなのだと分かる。最初一個だった乳房はやがて舞台にたつ8人分のトルソーが置かれめいめいが同じようにそれをかざした後、置かれ、そこには一輪の花が飾られる。
 J.ラ力ンは「女というものは存在しない」と言ったが、スカートを穿き、乳房を持っているからと言って「女というもの」であるわけではない。「おたる」は「踊り」の語源だと黒田育世は書いているが、「踊り」は「男取り」から来ていると聞いたこともある。これは存在しない「女というもの」を目指すため「女性性」を顕揚しながら、「おたる鳥をよぶ準備」、 つまり「ダンサーになりたい」という欲望の全面的な開放をダンスで表した構造を持った作品であった。