2008年7月28日

『アンティゴネ』(ハナン・スニル演出、ソフォクレス作)

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『アンティゴネ』における議論の政治
―ハナン・スニル演出 ソフォクレス『アンティゴネ』劇評

森川泰彦

 『アンティゴネ』は「対立の劇」である。この劇では、国家の敵ポリュケイネスの埋葬禁止の是非と、それを敢行した妹アンティゴネの処罰の是非をめぐって、アンティゴネが主張する神の掟とクレオンの主張する国の法がぶつかり合う。どちらが正しいかを原理的に決定できない対立が生じ、しかし決定を下さなくてはならないという極限状況が、この劇の基本構造をなしているのである。
 そしてまた、『アンティゴネ』は「議論の劇」である。登場人物は、ひたすら政治的な正当性をめぐって討議する。たとえそれが、肉親の埋葬や自己や許婚の生命という重大な私的利害に関わることであれ、ひたすら弁論によって、自己の主張の公共的正当化を図ろうとするのである。この劇の大部分は議論によって構成されているのだ。まず物語は、アンティゴネとイスメネの埋葬実行の是非をめぐる議論に始まる。これは私的な会話であるが、捕えられたアンティゴネは、公的な場でクレオンに同様の議論を挑み、クレオンもこれに応じる。続いてクレオンは、アンティゴネを弁護する息子ハイモンとの論戦に応じる。そして最後の預言者テイレシアスとの議論の後、急にクレオンは、自己の主張を全面的に撤回することになる。
 ではなぜ、登場人物たちはこれほど雄弁なのか。そしてなぜ、その発言において、公的正義を私的利害に優先させるのか。クレオンは独裁者であるのなら、なぜ相手の発言を封じ命令だけを下さないのか。同じ日に上演された魯迅の『剣を鍛える話』においては、大王の「発言はいつも短い。」これが絶対的権力者の通常の姿であろう。また、なぜクレオンは急に弱気になるのか。
 以下のように解すれば、これを合理的に説明できる。つまりは、クレオンは絶対的権力者ではないのである。「全体主義」と言われる政治体制の中にも、様々な類型がある。民主政でないとしても、首長に権力が集中しているとは限らず、複数の主体が権力を分かち持っている寡頭政も広く存在する(権威主義体制)。それではクレオンは、誰と権力を共有しているのか。それはテーバイの長老たち(コロス)である。彼は「同輩者の中の第一人者」に過ぎないのだ。だから彼は、自己の政治的決定を常に長老たちの前で正当化し、その(暗黙の)同意を得なければならない。だから挑戦者たちは、長老たちを味方につけるべく、言葉によって王に闘いを挑むのである(もっともアンティゴネの主張は、現世の公共性にとどまらない点で特殊であり、その検討は極めて重要であるが、紙幅が限られているので割愛する)。
 原理的に決定できない決定を執行するためには、裁定者の権威だけがその担保となる。戦勝の高揚の中で、既に決断に踏み切っていたクレオンは、そのように考えて後に引くことができない。彼は、自己の権威を印象付けるべく振る舞いつつも、同時に長老たちの説得に必死になる。家父長主義的な長老たちは、女に負けてよいのかと煽られてクレオンへの忠誠を維持し、民衆はアンティゴネを支持していると聞いてハイモンに傾きかけるが、踏みとどまる。彼らの中には信念を変えぬ者もいようが、大部分の者は、どちらが正当なのか迷い続けて、揺れ動く。そして程度の差はあれ、優勢な方につこうと周りをうかがう日和見主義者でもある。
 このような流動的状況を決定付けたのが、王も認める権威者テイレシアスの態度表明である。長老たちは一人ではクレオンに歯向かえず、その世俗的権威を畏れなければならないが、彼らの多数の支持がなければ、クレオンは直ちにその座を失う。そして、テイレシアスという宗教的権威の反対を目の当たりにして、まさにその危険が迫ったのだ。クレオンは己の形成不利を悟って、態度を変える。独裁者を「演じる」のをやめたのである。後は、普通の人間に戻ったそれなりに優れた男が、過酷な運命にさらされ転落していく様が描かれることになる。
 今回の上演は、クレオンの権力の限界とそれに関連した長老=コロスの重要性に着目した点で注目すべき舞台であった。クレオンは、最後を除いて堂々と自信ありげに振舞いつつも、絶えず長老たちの動向を気にし、直接の論敵たちの方ばかりでなくそちらにも語りかけ、彼らが反対意見を述べようとするなら、機先を制しようとしたのである。そしてこの舞台では、発言者が常にコロスを意識するために、体や首の向き、視線の動きが必然的に運動性に富むものになる。これは、舞台上に台を設けて、簡単な移動により身体の高低差や視線の上下を作り出すことを可能にした美術や、特にクレオンを演じた役者の高度な技量とあいまって、豊かなスペクタクルを形作ることになった。
 しかしながら、先に述べた立場からは、演出家の読解は不十分である。まず演出ノートによれば、コロスは「尊敬すべき経験豊かな大衆」で「現代における世論を体現する存在」であるという。また、アフタートークでの発言では、クレオンは短絡的思考の現役の司令官、コロスは思慮深い退役軍人であると位置付けられていた。しかし、テクストはコロスをそのように理想化していないし、かかる解釈では、ポピュリズムに対する批判を欠くことになる。さらには、そもそも民主主義国家(イスラエル)を、権威主義国家テーバイに直接重ね合わせることはできないのだ。
 そして最も重大な欠点は、そのような理解では、王と長老たちとの、また長老同士の間の、イデオロギーや利害の対立・緊張関係が基本的に存在しなくなってしまうことである。実際の舞台も当然これを反映し、対立が生じても原理的なものにはなっていなかった。このような演出では、この劇が持っている政治劇としての可能性、現代にも通じる政治の本質を描いた普遍性が、十分捉えられているとはいえない。長老たちの支持獲得をめぐる『言葉の政治』に着目するにとどまらず、彼らに出自や信条により異なる政治的主体性を与えて初めて、それが実現するのである。そうして初めて、異なる意図を持った様々な主体に働く多様な力のぶつかり合いとそのダイナミックな変化を、ギリシャ悲劇特有のコロスを活かして顕在化する演出も可能になる。そしてそのためには、せりふを意味論的に理解するだけでは不十分であり、語用論的に把握する必要があるのだ。今回の舞台は、すぐれた着想を有し、かつそれを巧みに形象化していたが、これらの点で不徹底に終わったと考える。
 なお、日本の古典演出においては、テクストにきちんと向かい合うことのない安易な改竄が横行しており(根拠があれば改作を否定はしないが)、特にギリシャ悲劇の合唱部分は、扱いが難しいためきちんと上演されることは少ない。この点この舞台では、コロスの合唱なども省略せず、かつ無理なく上演していた。そしてギリシャ悲劇は、能がそうであるように本来音楽劇でもあったのだが、この舞台では、台を太鼓代わりにした荒々しい演奏や、アンティゴネの歌など、優れた舞台効果を有する音楽に富んでいた点でも、見応え聴き応えがあった。これらも高く評価すべきである。

(2008年6月14日観劇)