劇評講座

2009年8月13日

『オリヴィエ・ピィのグリム童話』(オリヴィエ・ピィ作・演出、グリム兄弟原作)

『グリム童話』を語ること
奥原佳津夫

民間伝承やあるいはそれを模した文芸作品が、その構成要素を遡れば祖形において神話と同根であることは云うまでもない。オリヴィエ・ピィ作・演出の三部作は、童話の素朴で典型的な登場人物たちの両脇に天使と悪魔を配することで、『グリム童話』をいわば「キリスト教説話」の次元で語り直した。

父親が悪魔と交わした契約によって両手を失った娘が王妃となり、再び悪魔に仲を裂かれながらも王と再会する『少女と悪魔と風車小屋』。三人の王子の末弟が、天使の助言を容れて瀕死の父王のためにいのちの水を手に入れる『いのちの水』。継母に虐げられた娘が、言い交わした王の記憶を取り戻して結ばれる『本物のフィアンセ』。いずれも、善良な主人公を支える守護天使が登場し、一貫してアコーディオンを持った語り手の女優によって演じられることで、三部作を構成する縦糸となっている。
もう一人、三部作に共通する登場人物として、宮廷に仕える庭師がいる。権力が悪に傾く時も、己の信じる所を曲げないこの庭師には、自然の摂理=天意に従う人間という役割が与えられている。自然に天の恩寵を見るこの作品のメッセージは、『少女と悪魔と風車小屋』の終幕の台詞に明らかである。切断された両手が再生したことは不思議ではない、年々木々が芽吹くのと同じだから、と説明する王妃に、王が答える、「ぼくはいつもそれが不思議だった」と。
だが、純粋素朴なメッセージは、むしろ実感をもって観客に受け取られにくいものでもある。どう語られるか、が問題だ。

単純な物語であるが、それを語る手法には、様々な演劇伝統が援用されている。
まず目につくのは、額縁状に飾られたイルミネーションや、赤黒を基調にした衣装、白塗りのメイクアップなどが連想させるバーレスクやキャバレーの演芸、道化芝居の世界。少人数の俳優が類型的な演技もいとわず複数の役を演じわける手法や、彼らが演奏する音楽もその印象を強めた。
さらに、空間いっぱいに演技エリアを取った今回の上演では、観客が至近距離から仮設舞台を囲むバラガン(縁日芝居、見世物芝居)の感覚も存分に味わえた。
そして何より、主人公をめぐる天使と悪魔の存在を顕在化することで、三連作の童話は、中世道徳劇の並列的なエピソードを思わせるものとなった。「人間」をめぐる「美徳」群と「悪徳」群のせめぎ合いから「天国」に辿り着く結末によって人の一生を描く道徳劇のキリスト教的世界観が、この作品の基調として生かされている。(そしてそれは、クローデルに傾倒するとも聞く、カトリック詩人オリビエ・ピィの資質にも通じるものだろう)
とは云え、中世道徳劇のメッセージ性がそのまま現代に通じる筈もなく、バーレスク風の徹底して「俗」な装いで観客の共感を勝ち取ることで、純粋素朴なメッセージに耳を傾けさせてしまう所が、この作品の工夫であり妙味である。

多様な演劇の記憶を交錯させた作品だけに、「演劇」自体についての自己言及も注目に値する。
劇中、二つの劇団が登場し、第一作『少女と悪魔と風車小屋』では、余興の骸骨芝居を演じる一座が「芸術とは死とともにある悦楽」というデカダンがかった台詞を語るが、第三作『本物のフィアンセ』に登場する旅芸人一座は大きな役割を担う。記憶喪失の王に、劇中劇で自身の役を演じさせて記憶を取り戻させるというプロセスによって、虚構の中に劇中の現実を取り込むのだが、そればかりではなく、レパートリーとして『少女と悪魔と風車小屋』のパロディを演じてみせることによって、この上演全体を一挙にメタシアトリカルなものにする。
この一座は、不幸な物語を専門に上演する劇団だという。現実世界がそうであるからだ。だが一座の座長は「この結末は芝居がかっていすぎる」と云いながらも、終幕のハッピーエンドをむしろ嬉々として許容する。
ここに、一方にペシミスティックにならざるをえない芸術を見据えながらも、より開かれたものへと演劇を転化しようとする作者の姿勢を感じる。

オリビエ・ピィの作品では、昨年上演された『若き俳優への手紙』が印象深い。まさに、演劇芸術へのクレド(信仰告白)とも云うべき純粋な言葉が至情をもって語られ、なおかつそれが演劇的な充実感を持ちうるという奇跡的な作品に感動したが、一方、演劇創りの側に馴染みの薄い観客には、その言葉は実感しにくいものであったらしい。
その点、この『グリム童話』三部作は、誰にでもわかりやすい内容ながら、ともすると実感をもって受け取られにくい純粋素朴な言葉が、空虚に響くことのない絶妙なバランスが計られていた。一見たわいのない童話劇と見せながら、真摯に、愚直なまでに純粋に演劇芸術と向き合おうとするこの作者ならではの作品世界が拓かれていた。それは、道化芝居の俗性が、時としてそのまま宗教劇の聖性に転ずる瞬間を垣間見せるような、稀有の演劇装置である。
(於.舞台芸術公園 楕円堂 2009.6.27/28所見)