劇評講座

2015年3月26日

■入選■【『サーカス物語』演出:ユディ・タジュディン、作:ミヒャエル・エンデ】樫田那美紀さん

カテゴリー: 2013年秋のシーズン

 決して自分を見てはいけない。無邪気さをなくしてはいけない。それが掟の鏡の城に純白のドレスで佇むエリ王女、すなわち現実世界での少女エリは、狂気的なまでに統一されたダンスと歌でエリを囲む無数の影たちに訴える。――「ねえ!頼むから話してよ!」
 10月中旬、インドネシアの演出家ユディ・ダジュディンを演出家に迎え封切りされた「サーカス物語」。この序盤、ジョジョが紡ぐ物語の中でエリによって歌われたこのフレーズは、鏡に囲まれ不自由ない生活をしながらも、世間から遮断されて暮らす王女エリの孤独を色濃く映す象徴的なフレーズである。決して飾らない伸びやかな澄んだ歌声で歌い上げられるからこそ、私たちは全身で受け止めることを余儀なくされ、エリの心の叫びがまるで自分の叫びのように心に痛烈に染み込んでくる一シーンだ。
 ある物語の中で「ファンタジー」や「空想世界」という概念と「現実」を対比して描く際に、物語はファンタジー推奨側に回ることが多いように感じる。無論、物語は虚構の必要性を肯定するがゆえにそれを土台にして生まれるものであるので、当然の結果といえよう。今回のサーカス物語の触れ込みも、そうではなかっただろうか。ファンタジーの世界であるジョジョの作り話は、画一化と経済万能主義が当たり前のごとく生活に浸透している近代社会、すなわち現実の世界には欠けている、より人間らしくてより好ましいものである、と。このサーカス物語は現代社会の精神的な貧しさを、ファンタジーの世界を鮮やかに生き生きと描くことで表現するのではないかと思っていた。
 しかし、今回舞台を観劇して意表をつかれたのは、この一篇が単なる「ファンタジーのすすめ」ではなく、それよりも一歩進んだ「ファンタジーを持った人間の生き方はどうあるべきか?」というエンデからの問題提起が見事に表現されていたことだ。鏡の王国で、狂気的なまでに統一された影たちの一瞬の狂いもないダンス。これこそが後の話の重要なキーワードの一つである「完璧性」を確かに体現したものではないだろうか。物語の終盤で大蜘蛛アングラマインの支配する、人間の息吹を大きく絡め取ってしまう完璧を極めた世界とそのダンスには、確かに通ずるものがあるように感じる。私の脳裏には、エンデが身をもって体験したであろう、第二次世界大戦のヒットラー率いるナチス軍の統一感、群衆に一つの思想の網がかぶせられていく様がよぎる。完璧で狂いのない統一は人間を窮屈にさせ、ジョジョも劇中に述べているように、不確実で不安定だが私たちの心の中では絶対的正義である「愛」をも必要のないものに陥れてしまう。たとえその統一が自由を求めて設計されたものだとしても。そう。ファンタジーの中ですら、現実世界の危うい合理性を見出す余地は多分に残っているのだ。登場人物や観客をもうっとりさせる魅惑的なファンタジーの世界。そこに潜む「人間を人間でなくする」いき過ぎた幻想主義的システムへのエンデなりの警鐘が確かにこの物語には存在している。
 ファンタジーの中をいかに生きるのか?ファンタジーをいかにして自分の生きねばならない世の中のお守りにするのか?そんな問いを私は劇場から持ち帰った。生身の人間が目の前で演ずる、舞台という「現実」でこそ、この問いは観る者に突き刺さるのだと思う。私たちはファンタジーの中では生きられない。しかし、ファンタジーで生きていくことはできる。私はそう信じたい。