劇評講座

2016年2月10日

■準入選■【グスコーブドリの伝記】樫田那美紀さん

カテゴリー: 2015

 白、という色を思い浮かべてほしい。あなたの中にある白と私の中にある白。これは決して同じではない。いやむしろ必ず違う、と断言できる。例えば同じ白と呼ばれる物を私とあなたが同時に見たとする。その時も、あなたが見ている白と呼ばれる色と、私が見ている白と呼ばれる色は、必ず異なる。SPAC版グスコーブドリの伝記、本劇は人間が知覚する色彩の儚さと不確かさを、魅力的な姿で提示してくれた作品である。
 「蘭を煮るのは楽しいなあ」。本劇の出だしで、観客は壮絶な違和感と戦うことになる。「蘭を煮て遊ぶ」、という観客のほぼ大半が未体験であろう遊び、そしてその愉しさを何度も唱える舞台の人形、美加理演じる主人公グスコーブドリ。彼らは怖いくらいにまっすぐこちらを見つめ、抑揚のない、それでいて張った声で叫びながら蘭を煮続けている。舞台には他に、真っ白な木枠と人形を操る白装束の使い手。幕が上がると観客は即座に、その違和感とひたすら向き合う時間へ放り込まれる。おかしい。おかしい。しかしここは劇場だ。観客は無意識の内に、そんな非現実的な状況へ自己を適応し始める。そうしてこの非現実的であるはずの状況を何食わぬ顔で受け入れ、その世界に引き込まれるのである。
 宮城聰氏はこの作品を「絵本のような舞台」と形容している。幕が開くと同時に私たちが対峙することになる違和感は、宮城聰氏が述べている「絵本のような舞台」を見事に再現しきっていた。絵本の中の言葉は、抑揚や声のトーンの想像を私たち読者の自由に強く委ねているように思われる。幼い日に受けた絵本の読み聞かせを思い返してみても、役者ばりの感情表現豊かなものより、朗読素人の母ののっぺらぼうなたどたどしい読み聞かせが強く思い出され、それに心惹かれるのは私だけではないだろう。本劇でブドリを演じる美加理の抑揚のないのっぺらぼうな言葉は、少しの懐かしさが調合されて私たちの耳に入り、同時に私たちはその声に色付けをして頭で彼らの表情や感情を想像しながら、理解している。それはまるで白と黒二色で表現された水墨画に我々が色彩を感じずにはいられないことと似ている。舞台は真っ白な木の枠にかこまれ真っ白な小道具で構成された一見無機質な姿だが、私たちはブドリの声同様に、真っ白な木々に緑を、真っ白な牛に茶色を、色彩を感じずにはいられない。絵本を読んだ時の私たちの頭の想像力を含め、舞台は、絵本の世界を見事に完成させていた。ブドリの声は無抑揚であったが、私には、決して無抑揚ではなく、ついには豊かな感情までも想像してしまうほどであった。
 そんな本作品の冒頭の強烈な違和感は、絵本を読む時に似た想像力の喚起によって私たちを静かに懐に引き込んだかと思うと、物語が進む先にその懐から私たちを放り出してしまう。幕が開くと同時に私たちが出会う抑揚のないのっぺらぼうのブドリは、ネリがさらわれてしまうまでは、それに私達が頭の中でどれだけ色をつけようともその姿はあくまで「絵本の中の挿絵の一人」。どれだけ色彩や感情を読み取っても、その動きや言葉はどこか機械的で、ブドリの脇を固める人形と変わらないほどあと一歩の生命感に欠けているのだ。しかし、物語は進み、ブドリは変わる。てぐすの栽培、農業の苦しさと愉しさ、そして勉学への愉しさ・・・。そんなブドリの人生の中で起きる喜怒哀楽や感情の震え、その様々が、仕事を覚えたブドリの「自立ってこういうことかあ」の生き生きとした言葉にも象徴されているように、ブドリを人間へと変えてゆく。ブドリを絵本の中から外へ押し出してゆく。ブドリのたどたどしかったコマ切れの動き、声の無抑揚が鮮やかに壊されてゆくのだ。関節の動き一つ一つが力を持ってたおやかになり、あんなにのっぺらぼうだった言葉は生き生きと抑揚を帯びてゆく。とりわけ象徴的なのは、物語の中盤、火山灰の現しであるキラキラと輝くやわらかな銀色のテープを手でそっと撫でながら、地にしっかり足をつけゆっくりと歩むブドリの姿だ。強く、しっかりと一歩一歩歩む彼の手と足と身体その全体は、まさしくブドリ自身が絵本から飛び出した、まさに人間になった、そのことの象徴である。ブドリを囲む人形ののっぺらぼうな姿は、彼の変化をより克明に私へ印象づける。彼の声には私たちが絵本を読むときに似た想像力を働かせる必要のないほど、彼は白ではない、色を持ち始めるのだ。それはまさしく、絵本から飛び出した人間の姿である。
 いよいよ物語の終盤、ブドリによるガルボナード火山島の手術シーンは、白い絵本の世界に最後のとどめをさす。絵本の世界の象徴である真っ白な木枠がブドリ自身の手でじっくりと閉じられ、ただの木枠となる。それはまさしく絵本の世界の終焉である。ブドリは「人間」として、そっと三角になった真っ白な木枠の中へと入る。そして火山の噴火、色鮮やかな光の点滅がおこる。ブドリの住まう世界にあった白をまばゆい光が飲み込み、舞台全体、つまりブドリの世界全体が色に染まるのである。そして舞台は暗転し、世界は、黒に染まる。劇場に、重たい沈黙がのしかかる。しかし観客としてその殉死に立ち会った私にとって、ブドリ亡き今、目の前に映る黒い舞台は、黒でありながら、黒ではなかった。その黒の世界は私にとってはっきりと、鮮やかな「赤」に見えたのだ。冒頭、白い絵本の世界に私たちが色を塗り感情を理解したように、私はその深い黒に「赤」を塗らずにはいられなかったのだ。なぜだろうか。おそらくその赤は、絵本から飛び出し地に足をつけ歩いた、挿絵から人間となったブドリの、鮮やかな血潮であろう。