2016年2月13日

■入選■【聖★腹話術学園】欲望と私 ――人形という存在から―― 須藤千尋さん

 この劇において、俳優のほとんどは、それぞれの腕に人形を携えて登場する。そして、それを操り、魂を与える。俳優―人形間では、一般的な腹話術師と人形の関係と同じように、支配―被支配という関係が成立している。しかし、この物語に登場する腹話術学園においては、それが逆転し、被支配―支配の関係、つまり、腹話術師が人形に支配されている。
 腹話術師は、人形の支配に対して激しく反抗することはない。彼らは人形に忠実に、銃を振りまわし、学園内でセックスをする(もちろん、人形同士で)。しかし、ここで考えなければならないのは、彼らを支配している人形たちは、彼ら自身の欲望を形にしたものだということである。つまり、腹話術師が人形に支配されているということは、彼ら自身が自らの欲望に支配されている状態であると言える。
 この物語の主人公である男・セレストも、腹話術学園の校長から与えられた三度のチャンスで、「聖人」、「天才」、「英雄」という三体の人形をつくる。最初につくった「聖人」は、人形たちに良かれと思い行ったほどこしが裏目に出て、暴行され、死んでしまう。次の「天才」は、愛の重要性を説くも、最終的には自らのこめかみに銃を突きつけ、死を選択する。最後の「英雄」は、死神を思わせる風貌の骸骨に果敢に立ち向かうが、敗れる。このように、セレストの欲望は、完全に果たされることはなく、終わりを迎える。
 セレストの人形も、他の腹話術師たちの人形も、彼らの欲望が表出したものに変わりはない。しかし、自らの欲望に忠実な人形たち――銃を持ち大股で歩く人形、学園内でセックスにふける人形など――は、どこか滑稽で、可笑しく、セレストの人形が終わりを迎える瞬間は、なぜか虚しさを感じる。
 では、その差は一体どこからくるものなのだろう? それは、他の腹話術師の人形とセレストの人形があらわす欲望の差に由来している。前者は、支配欲や性欲など、社会的によしとされない欲望を象徴している。私たちは、これらの欲望のある自分、欲望に正直な自分を認められないし、認めたくはない。私たちが社会生活を送る上で、これらの欲望は、日常的に理性によって抑制されている。つまり、私たちは、「私ではない」とみなしている私を、表出させずに生きている。人形たちに感じる可笑しさは、社会の規範から逸脱し、タブーを犯していることから来ている。一方、セレストの人形たちは、愛や知性、勇敢さ、死に抗い生を求める姿勢といった、人間だけが持ちうる欲望を象徴している。セレストの人形たちが散っていくたびに感じる虚しさは、私たちが、三体の人形に私たち自身の姿を見出しているためだろう。
 腹話術学園の第一の掟であり、幾度も繰り返されるセリフ、「私は私ではない(Moi, ce n’est pas moi.)」は、欲望に忠実な「私ではない」私を認めたくない「私」を示しているのではないだろうか。腹話術学園は、塀に囲まれており、外の世界でうまくいかなかった人たちを受け入れる場所である。なんらかの理由で、現実の世界からはみ出てしまった人たちの話とも言えよう。私たちが暮らしている世界は、人や物が溢れ、どんどん流動的になってきている。「私」の代わりはいくらでも存在しているため、いつ居場所がなくなってもおかしくない。そんな社会の中で、アイデンティティーを見出すための手がかりの一つとして、欲望があると考えられる。しかし、先述した通り、欲望に正直に生きることは社会においてタブーとされている。この劇に登場する腹話術師たちは、そんな生き方をしている私を「私」と認めたくないがために、人形に「私ではない」私をなすりつけ、それに支配される(されているように見せる)ことを選択しているのだ。欲望に支配されたいが、そうなっている自分を認めたくないことは、アンビヴァレンスでありながらも、日常的に私たちが囚われていることでもある。
 ここで、劇の冒頭に遡ってみよう。劇場に響きわたる呼吸音と心臓の鼓動。それが止まると同時に、黄色い服を着た大きな男の人形が上から落ちてくる。その人形は、4人の俳優によって、手足を動かされ、立ち上がる。そして、空中を浮遊し、去っていく。その後、セレストが現れる。去ったばかり人形と同じ、黄色い服を着て。冒頭に登場した人形とセレストの関係は、終盤で明らかになる。セレストは、腹話術学園の校長(冒頭に登場した人形)がつくりだしたものだったのだ。校長はセレストに対し、お前は私から離れられない存在であると告げる。セレストは校長に反抗し、校長を投げ飛ばす。そこで、幕切れを迎える。
 セレストは、校長から事実を告げられることで、ひどく混乱する。ある種の「私ではない」私と対面したからである。セレストと校長は、不可分な存在である。しかし、セレストは、校長に必死で抵抗する。私たちは、セレストと同じように、欲望にとらわれてしまいそうになる自分――「私ではない」私――に抗い、その存在を私たちの外に追いやっている。だが、「私ではない」私も、私には違いない。セレストと校長、腹話術師と人形のように、切っても切り離せない関係である。
 この劇は、意識的、無意識的に私たちが普段、目を背けているものを、私たちの目の前に突きつけてくる。それを目の当たりにした私たちは、否応なく、私たち自身の中に存在する「私ではない」私と対峙することとなるのだ。