劇評講座

2017年12月26日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■入選■【腹話術師たち、口角泡を飛ばす】長谷川真代さん

カテゴリー: 2017

レイプ的自慰行為の先にあるもの

 芝居の幕切れ、彼女(彼)は自らの腕にはめたマぺットの内部に、もう片方の手を静かに少しずつゆっくりと差し込みはじめた。その行為の辿り着く先を、我々観客は目を釘づけにして見守る。洩らした吐息と「結末は思い出せないの」という言葉を残して芝居は唐突に終わりをむかえる。照明が落ち、舞台上が闇と静寂に包まれても、我々はお決まりの拍手ができずにいた。「果たしてこれでこの劇は終わりなのだろうか?」血液を脈打たせながら平静を装っていた観客は、期待の昂ぶりに終止符を打たざるをえなかった。自らを彼女(彼)に投影していたのに、その利那、鮮やかに現実に引きずり戻されたのである。 続きを読む »

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■選評■SPAC文芸部 大岡淳

カテゴリー: 2017

 SPAC文芸部スタッフとして、ここ10年ほど、観客の皆様から寄せられた劇評を拝読して参りました。毎回どの投稿も、本来なら「言葉にできない」はずの御自身の観劇体験を、あえて言葉にして他者に伝達しようという熱意に満ちたもので、心打たれます。今回もやはり感動いたしましたが、それとともに、年を経るうちに変化も確実に生じていると感じました。
 それは、ここ数年の傾向でもあるのですが、「可もなく不可もなし」という印象の劇評が大半を占めている、ということであります。なぜ「可もなく不可もなし」なのかと申しますと、作品の内容の紹介や、作品の背景の解説は、皆さんきれいにまとめておられるのですが、そこで終わってしまっているのですね。しかし、劇評はあくまで批評であって、レビューとは異なります。もちろん作品についての紹介・解説は、劇評の果たすべき役割でありますが、それに加えて、作品に対する評価を下さねば、劇評としては完結しません。結局その芝居は、良い作品だったのか、そうではなかったのか。その良し悪しは、もちろん突き詰めれば主観的な判断に過ぎないわけですが、その主観的な判断をなるべく客観的に説明してみようという危うい綱渡りが、劇評(のみならず批評一般)の醍醐味だと私は理解しています。 続きを読む »