劇評講座

2024年8月19日

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■入選■【ペール・ギュント】小田透さん

カテゴリー: 未分類,2022

美的カタルシスか、批判的挑発か

双六が舞台を支配している。サイコロの目がマスにあしらわれた、舞台奥が高くなるように傾斜した、とてつもなく巨大な双六盤が、舞台中央を覆うように、少し斜めに置かれている。後景には、それと鏡合わせになる双六盤が、奥にわずかに傾いで、上辺が右下がりになっているせいでどこか不安定に、アンバランスに、屹立している。芝居が始まる前、後景に投影されている画像の上部には、「日本人海外発展双六」と、右から左に記されている。大日本帝国の海外進出を題材に取った、実在の双六らしい。双六盤の手前に照らし出された前景では、軍国少年とその妹が、入れ替わりで双六で遊んでいる。一人遊びにのめりこんでいくのは、少年のほう。折り紙の兜をかぶり、紺色の半纏を羽織った彼の手に握られているのは、軍人をかたどった駒、ゼロ戦のような航空機。ときにひどく咳込む、病弱なのかもしれない彼に、妹の声は届かない。男の身勝手さが招きよせる歴史的悲劇が、きわめて象徴的なかたちで提示された後、劇が突如として始まる。

明治から昭和にいたる大日本帝国の帝国主義的な拡張政策(の瓦解)のなか、自らのアイデンティティを見出そうとして迷走する日本男児の物語に読み替えられた宮城聰の『ペール・ギュント』は、日本近代史を幾度となく参照するが、それらはすべてどこか戯画的な誇張を含んでいる。鹿鳴館時代を思わせる1幕のトロル王の宮廷シーンの付け鼻、人形の衣装のようなドレスをまとった者たちのダンス。欧州諸国と物別れし、別々の道を行こうというペールの通告が日本の国際連盟脱退を想起させる2幕冒頭の入退場はコミカルな影のシルエットで演じられるし、西欧代表団の話す西洋語はもっともらしいでたらめな代物であり、それが正確な日本語に通訳されると、ますます茶番めいてくる。満州国の旗をはためかせながら中国風とも韓国風ともいえない衣装をまとった踊り子たちに囲まれて、ペールが中国風の装いで皇帝を気取る2幕半ばは、大日本帝国の植民地的野心が明白なかたちで暴かれるところだが、衣装にしても小道具にしてもどこかフェイクめいており、意図された安っぽさがある。サイレンがうなり、白煙が上がり、空襲の被害にあったかのように、壁からも床からも双六のマス目が剥がれ落ち、いたるところに穴が開いて荒廃した2幕後半の敗戦のシーンは、痛切ではあるが、「うちてしやまん」と筆書きされた日の丸を腰にまきつけて物乞いのようにペールにすがるトロル王は、どこかコミカルでもある。日本近代を大真面目に受け取って大真面目に批判するというよりも、あえて茶化すことで、そのいかがわしさやうたがわしさが逆説的に強調されていた。

しかしながら、宮城演出の批判性の強度が最高度に達したのは、敗戦の風景が出現するひとつ前の難破のシーン、演出の戦略的な軽薄さが剥がれ落ち、シリアスさが不気味なまでに浮上するシーン、海に投げ出されたペールが、決して現実化されることのなかった思いを幻視するシーンである。生まれることがなかったさまざまな可能性が、対位法的に、不協和に、リズミックでもあれば調子外れでもあるような旋律をなぞって、叫び出す。舞台が妖しい青に染まり、コロス隊が双六の一の目のいたるところから、もぐら叩きのもぐらのように、あちらこちらで顔を突き出しては引っ込める。ぺールの心象風景の荒涼さや不毛さが浮き上がるこの場こそが、宮城演出の『ペール・ギュント』の突出点であったように思う。

ただ、そこで問い質されていたのは、ペールが犯した具体的な罪――それは数限りないだろう、日本近代が犯した罪が数限りないように――というより、もっとずっと内面的な、近代的自我のアイデンティティをめぐるものではなかっただろうか。こうして、あえて不真面目に、戯画めかしながら、日本近代史へのほのめかしをあちこちに盛り込んできた宮城の『ペール・ギュント』は、劇がほとんど終わりかけたところで、突如として象徴劇的なものにスイッチする。そして、そのような迂回路をとおして、宮城の近代批判が観客であるわたしたちを不意打ちする。

いつもどこかさびしげで、どこかよそよそしく、奇妙に神秘的だったソールヴェイが、最後の最後で突如として意志的存在に転化し、きわめて強い声で「あんたに罪なんかない」と叫ぶのは、そのような急展開の後のことである。「あなたはずっとわたしの夢のなかにいた」と甘やかに言うソールヴェイは、老ペールを受け入れ、赦す存在として立ち現れる。ご都合主義的に、男性原理的なものを女性原理的なものが包み込んでいくだけではない。「父親は誰だ」とペールが絶望的な叫びを返すと、彼女は無言のまま、舞台の袖を指さし、観客席のわたしたちを指さすだろう。『ペール・ギュント』が父の不在、父になることの拒否の物語であったことが突きつけられるこの瞬間、抑圧されてきた不在の父の責任が、突如として、わたしたちに差し向けられる。男性的な価値観と、近代の帝国主義と、日本の戦争犯罪に、わたしたちもまた不可避的に加担していた/いること、共犯者であった/あることが、脈絡なく、突きつけられる。劇に内と外が、内から外へとつなげられる。わたしたちは否応なく当事者として巻き込まれる。

しかし、そのような挑発的な巻き込みは不発に終わっていたのではないか。わたしたちを指さしたソールヴェイは、そのまま指をタクトのように用いて、音楽隊を率いて、劇を終わらせていく。それは、本劇においてほとんどつねに受動的であった彼女が自律的な行為能力を発揮した瞬間ではあった。冒頭の軍国少年につらなる存在である指揮者がソールヴェイだったことが明かされる瞬間でもあった。ジェンダー・ポリティクスを転覆させる批判的な問いかけが、そこには仕込まれていた。しかし、ソールヴェイは、彼女に付与された自律性を、自らの存在を主張するためでも、日本近代をわたしたちとともに問い質すためでもなく、ペールを赦すために行使する。

うなだれて立ち尽くす老いたペールの手に握られていた杖を彼女は優しく取り外し、花を握らせる。子の手を引くようにして、「振り出し」のマス目まで彼を導いていく。ソールヴェイの歌う子守歌に込められていたのは、ペールが初めからもう一度やり直す可能性だ。うつむいた彼に光が注がれたとき、そのような可能性を受け取った老人は再生し、若返り、ほのかに輝いたように見えた。まるでペールも、ペールが象徴する日本近代も、ともに赦され、やり直す可能性を与えられたかのように。しかし、そのときわたしたちもまた、たんなる傍観者に戻ることを赦されてしまっている。

「あなたはわたしの夢の中にいた」というソールヴェイの告白と相まって、『ペール・ギュント』全体がペールの夢落ちであったかのように思えてくる。近代をリプレイすることができるとしたら、わたしたちはきっと前よりもずっとうまくやれるだろう。しかし、歴史に「もしも」はない。なされたことはなされたことである。あったことはなかったことにはできない。宮城の『ペール・ギュント』は、日本近代史について重要な問いを投げかけながら、それを掘り下げて、批判的に問い直すことで未来を作り直すことよりも、ありえたかもしれない別の過去の可能性を夢見ることで、過酷な現実の歴史を仮想的な内面の領域にシフトさせ、最終的には、胎内回帰的な夢の甘美な空間に退行してしまっていたのではないか。だからわたしたちは、現代にまで通底する日本近代についての重大な問いが、美しいイマージュの中で霧散してしまっていたことに、何か腑に落ちない思いを抱かざるをえないのである。