チープでポップなシリアス、あるいは全員の温度差
チープ・ポップ。
中央こそオープンスペースになっているけれど、上手も下手も、手前も奥も、ごちゃごちゃといろいろなものが置かれている。トイレ、キッチン、クローゼット、ガレージ、オフィスを模したかのようなオープンな空間が広がり、斜めに張り渡されたロープにはTシャツが旗のようにひらめき、縁日のような雰囲気を醸し出している。そのような装置のほとんどが、ガラクタで出来ている。いや、ゴミといったほうがふさわしいかもしれない。発色の良い、プラスチックのような柔らかい素材のカラフルさのおかげで、どこかポップで、どこかコンテンポラリーアートのようでもある。しかし、よく見れば、やはりゴミである。「守銭奴」を主人公とするドラマが、汚部屋、汚屋敷めいた空間のなかで始まる。痛烈な皮肉でなくて何であろう。
ジャン・ランベール=ヴィルドの演出するモリエールの『守銭奴、あるいは嘘の学校』は、17世紀フランスの古典作品としての歴史性を忠実に再現するのではなく、現代にも通底するアクチュアルさを前面に押し出していた。喜劇というジャンルを、軽やかに、お笑いに変換してみせていた。ミュージカル的なテイストもあった。すべてはコミカルであった。
かのように見えた。
ここではすべてがチャラさに移し替えられていた。アルパゴンの息子クレオン(永井健二)は盛った長髪のギャル男となり、その娘エリーズ(宮城嶋遥加)はゴテゴテとした装いの傲岸不遜なギャルとなる。どちらも街で見かけたら、思わず振り返り、二度見三度見するだろう。クレオンの思い人であるマリアンヌ(ながいさやこ)は落ち着いた感じの服装だが、マリアンヌでないときの彼女は、ラッパーのようなオーバーサイズのジャージをまとい、不審人物よろしくステージにたむろする。エリーズの恋人のヴァレール(大高浩一)は上下ツナギ姿だが、労働着というよりも、ファッションで着ている感がある。トリックスター的な存在である仲介役のフロズィーヌ(木内琴子)は女中的な普段着、ラ・フレッシュ(本多麻紀)は気取ったドレス。けれども、ふたりとも、そこはかとなくコスプレ的。誰もが唯一無二の演技だが、同時に、きわめてコントロールされた「タイプ」的な演技でもある。それぞれの装いにピタリと整合した、「いかにもそれらしい」演技。
けれども、それが演出家の求めたものだったのだろうか。
力演ではあった。好演ではあった。体当たり的な宮城嶋の演技はポップにはじけてはいたし、木内や本多の性格俳優的演技は巧みではあった。愚直な召使であるジャックを演じる吉植荘一郎、アルパゴンの下男のブランダヴォワーヌを演じる山崎皓司は、きっちりと脇を固め、猜疑心をめぐるこの劇に奥行きを与えてはいた。けれども、俳優のあいだに温度差はあったように思う。大高は自分の演じる役柄にたいしてクールな距離を保っていたし、永井はその距離を誠実に埋めようとするあまり、決して重なり合わない自分の資質と役柄の要求を逆説的に際立たせてしまっていた。そのようなズレがないわけではなかった。
そこかしこに微妙な上滑りがあった。
「翻訳・通訳・ドラマトルギー」の平野暁人が用いたのは、大岡淳がブレヒトの『三文オペラ』で創作したような、意図的に野卑な日本語だが、それをあえてここで使用する必然性があったのかどうか。2020年代的というよりも、1990年代的と言いたくなるようなヤンキー的な読み替えが、現代の日本の観客にどのように感じられるのかを、演出家がどこまで理解できていたのだろうか。そもそも、本当にラディカルに現代日本の文脈に移植しようというのなら、明治期の翻訳がそうしたように、キャラクターの名前を日本語化すべきであったし、「エキュ」のようなフランスの古い貨幣単位も円に置き換えるべきではなかったか。ノリのよい舞台ではあったものの、制作側や出演者たちの悪ノリという感想を抱いてしまう瞬間がないわけではなかった。しかも、どこか不徹底な、真面目さゆえの悪ノリ。 日本のお笑い的なテイストに流れすぎてしまったきらいがもある。面白く見られるものではあったけれども。
けれども、ジャンル的な代物と言っていい予定調和的ハッピーエンドの拒否こそが、演出家のねらいではなかったか。
演出家は原作に2つの大きな変更を加えていた。幕開けと幕切れ。舞台は、戯曲にはないシーンから始まる。アルパゴンがびくびく歩きながら登場する。彼は何度も何度も後ろを振り返る。そして、彼と向かい合って、まるで彼の鏡像であるかのように、何枚も何枚も紙幣を渡す謎めいた「?」とのパントマイムが続く。人の所作の猿真似というコメディの王道の手法。しかし、そこに鳴り響くのは、不吉なカラスの鳴き声。それと同じ不吉なカラスの鳴き声が、パイプオルガン的な荘厳な音楽と合唱によって増幅されて、原作にはない最後のシーンでも響きわたる。やっとのことで取り戻したアタッシェケースを開き、青白い光を発する札束の詰まった鞄を見つめるアルパゴンは、もはやホラーの主人公にほかならない。他者を餌食にして来た彼が、ここに至って、ハゲタカに襲われるかのようにみんなの餌食となる。文字通り身ぐるみを剥がされて、パンツ一丁で舞台に転がされることになる。
舞台は、暗闇のなかで妖しく照らし出される神秘的な存在として再登場した「?」(三島景太)によってミステリアスに終わる。わたしたちはどこか煙に巻かれたような気持ちになる。どこか落ち着かない。それはおそらく、「?」が最後に語りかけるアルパゴン(貴島豪)が、子どもたちからも、召使たちからも見放された存在だからだろう。物語的にという以上に、実存的な意味で、アルパゴンは剥き出しになっている。突如として出現した悲劇性、悲観的なパトスに、わたしたちは戦慄させられる。
喜劇が一瞬で悲劇に転化する。
古典戯曲が描きはしなかった近代的心理=真理を、現代的な演出において抉り出し、そこに、わたしたちの存在のままならない哀しみをただよわせること。貴島と三島の言葉と身体は、古典的な格調の高さと、現代的演出のポップさを、ギリギリのところで両立させつつ、喜劇と悲劇の本源的な通底性をも表出させていた。彼ら二人は、表面的なコミカルさの裏に、それと同じぐらいのシリアスさを注入し、『守銭奴』を特異でありながら普遍的である心理劇に変容させることに成功していたのだった。
それこそが、ランベール=ウィルドのチープでポップな演出のシリアスな核心ではなかっただろうかとわたしには思われるのである。