■劇評塾卒業生 依頼劇評■
鏡の国の、ロミオとジュリエット
ピィ〈完全版〉を流れる二つの時間
柳生正名
それは不思議なロミオとジュリエットだった。少しばかり、刺激的なもの言いをすれば、これがロミオとジュリエットか、と思われるほどに―静岡で〈完全版〉と銘打たれたオリヴィエ・ピィ演出を観た第一印象である。
この名作は映画、バレエ、ミュージカルなどの分野で多様な時代設定に読み換えられてきた。今回も登場人物は今風のドレスやスーツ姿。舞台には椰子の木が登場し、ヒロインの手に自動式拳銃が握られ…ただ、こうした道具立てが「らしくなさ」をもたらしたのではない。むしろ、舞台を二〇世紀米国に移したウエスト・サイド物語より「らしくなく」、かつ、その「らしくなさ」にむしろ魅かれている自分に気付く―そういった性格のものだ。
ピィにはオデオン座芸術監督としての最後の作品となった本作。台本の仏語訳に自ら当たったことでも話題を呼んだ。台詞は細部では省略があった半面、例えば、シェイクスピア=shakes pear(洋梨を振る)といった言葉遊びが淫猥な仕草ともども追加され、観客の笑いを誘った。ただ、〈完全版〉の名の通り、基本は原文に忠実。そもそも、原文自体、卑俗な地口と厳格な韻文の融合であり、それはより「らしさ」が増してしかるべき試みだったはず。にもかかわらず、「らしくなさ」―それも好ましい―を感じた理由は何か。
例えば幕切れ。二人の亡骸を目の当たりに、それまで反目してきた両家の当主は口々に黄金のロミオ像、ジュリエット像の造立を誓う。しかし、その和解の言葉と裏腹に、彼らが手から撒き散らすのは白い粉―それは、二人の死をよそに続く争いの不毛を象徴する「灰」さながらだった。
場面はキャピュレット家の納骨堂内という設定だ。石壁は舞台の淵ぎりぎりまでせり出し、間に穿たれた窮屈な階段上に、一同は寿司詰めで並び、灰が撒かれる。大団円の高揚感は薄く、まるで時間の袋小路に行き当たったがごとき閉塞感と重苦しさが漂う。
気付かされるのは、二人の愛が悲恋として完結し、メロドラマ「らしく」観客の涙を絞るためには、両家の和解という結果を伴うことが重要である点だ。和解という結末があればこそ、いつの時代も変わらぬ若者の典型である二人が、聖別された犠牲として栄光を帯び、その愛は世紀の悲恋として自己完結する。受肉した神の子キリストが自らを犠牲として人類を救済したのと同様に。
が、今回の結末は、むしろ街が戦乱によって灰燼に帰したかのイメージだ。そのまま、場面は争いにすさんだ冒頭に戻るかと錯覚するほどに―結局、二人の死は和解を生まず、悲恋が平和という実を結ぶこともない。この結末から連想されるのは、むしろ、果てしなく繰り返し、決して完結しない物語だろう。
主役2人の演技も、特に幕間を挟んだ3幕2場以降の後半部、格調を喪わない台詞回しといい、手振りを主体に感情の高まりを自然に表現する所作といい、観客の涙を絞らんがためのけれんには走るところはない。自ら死を選ぶ場面も、巨大な運命に押し潰される悲哀や、恋の成就を彼岸に託す思いを、取り立てて強調せず、むしろ本能の赴くまま突っ走る、普通の若者として演じ切った。
先にウエスト・サイド物語と図らずも比較したが、悲恋物語といった場合、われわれはハリウッド映画に典型的な物語の作法―冒頭で世界を立ち上げ、中盤で盛り上げ、最後に最高潮を据える―という図式を期待しがちだ。多分、それは終幕で涙を絞る「感動」を演出するための心理学的法則にかなう。加えて、そこにはヘブライズムに源を持つ歴史観=「神による世界創造」から「最後の審判を経た救済」という図式さえ、うっすら透けて見える。しかし、今回の舞台は演出でも演技でも、そうした方程式が微妙に外されている。
《言葉》が役者の身体に降り、受肉することで起こる奇蹟―という演劇観からうかがえるように、ピィ自身にはカソリック信仰に裏打ちされた形而上学的志向が強い。にもかかわらず、今回は逆の道を選んだように見える。なぜか?―この点を考えるため、今回の演出をもう少し掘り下げて見てみよう。
舞台装置は、矩形にモジュラー化された木製ブロック3基ほどが主体の簡素なもの。これを役者が移動させると、場は時にヴェローナの広場、二人が恋を語らうバルコニー、またキャピュレット家の墓所へと変化する。
装置の簡素さは、劇の土台をなすシンプルな構造に観客の思いを誘う。この点は、開幕から終幕までほぼ変わらず舞台上にあり続ける唯一のもの―メイクアップ用鏡台に注目するとき、はっきりする。鏡は役者にとって神聖なものだ。能楽では楽屋と舞台との境界、揚幕のすぐ内に「鏡の間」が存在する。シテはその姿見の前で面をつけ、役への変容を遂げるが、今回の演出は通常、観客の目から隠される、その存在をあえて舞台上にさらした。
そして、幕開きの1幕1場。モンタギュー役のマチュー・デセルティーヌは鏡台の前に坐し、ベンヴォーリオと息子ロミオをめぐる言葉を交わした次の瞬間、ロミオに早替わりする。さらに、3幕1場、カンタン・フォール演じる瀕死のティボルトが黒いヴェールをまとい、キャピュレット夫人に変ずる印象的な瞬間。また、オリヴィエ・バラジュークが、ジュリエットの父キャピュレットと許婚パリスの二役を多重人格者さながら演じた場面もまた、鏡の持つ変容の魔力を感じさせた。こうして、鏡の存在は登場人物それぞれが抱く欲望の深層意識レベルでの一致をあばき、人間関係の「対称」的構造を露わにした。
即ち、ロミオとジュリエットを筆頭に対立する両家の当主、その夫人、ロミオの親友マーキューシオとジュリエットの従兄ティボルト、ロミオの従僕とジュリエットの乳母―と、鏡に映り合ったような「対称」性に沿い、登場人物は互いに諍い、愛し合う。主人公二人が舞踏会で出会った瞬間、口づけを交わすという尋常でない心の振幅さえ、物語を貫く「対称」性からは、ごく自然なこととなる。この物語では近代リアリズム的な心理の流れより、形式の自己完結性が優先する。そのことが鏡によって暗示された、といえるだろう。
実際、1幕3場でジュリエットは乳母や母親と言葉を交わしつつ、拳銃をもてあそび、自身に向け撃つ真似までする。いったん、鏡台に仕舞われた拳銃は3幕3場、ヴェローナ追放の沙汰を受け、発作的に自殺を試みるロミオの手に握られる。鏡台を仲立ちに、そもそも二人が共有する死への願望が浮き彫りにされ、親同士の争いが二人を死に追いやった風の、ロマンティックかつ単純な解釈に疑問を投げ掛ける。そして、二人が鏡像同士としての「対称」性を分け合う存在であることも示す、際立った演出だった。
実は、この物語で「対称」性はこうした人間関係にとどまらず、劇的構成にまで貫徹する。ドラマを動かす最大の推進力となる「争い」の場面を見ていこう。1幕冒頭、舞台にはⅠ①キャピュレット家の使用人二人が登場、Ⅰ②モンタギュー家の使用人二人とでくわす。そこにⅡ③モンタギューの甥ベンヴォーリオ、Ⅱ④キャピュレット夫人の甥ティボルト、Ⅲ⑤数人の市民、Ⅳ⑥キャピュレットと同夫人、Ⅳ⑦モンタギューと同夫人と加わる過程で小競り合いが次第に本格的な争いへと発展。最後にⅤ⑧領主エスカラスの仲介で当座の和解が図られる。常に「対称」的な人間関係を踏まえつつ、身分が競り上がる構造だ。
次に、作劇上、物語の大きな転機となる3幕1場の争いだ。今度は、両家の使用人同士のいざこざは省略されるが、Ⅱ①モンタギュー側のベンヴォーリオ、その友人マーキューシオと従者たち、Ⅱ②キャピュレット側のティボルトら数人、Ⅱ③ロミオ、Ⅲ④市民、Ⅴ⑤領主と従者、Ⅳ⑥モンタギュー夫妻、⑦キャピュレット夫妻―1幕の争いと両家の先後関係を入れ替えた上で、同様の「対称」構造を形成する。注意すべきは、領主の親族かつロミオの友人たるマーキューシオと、モンタギュー嫡男かつキャピュレットの婿であるロミオだ。二人は人間関係の「対称」性に深く組み込まれつつ、「対称」性をかく乱する存在であり、ともにティボルトと命のやり取りを行うことで、物語に悲劇的加速度を与える。
そして、大詰め5幕3場、「争い」の解決の場。タイトルロールの二人が死んだ直後の墓所には、Ⅰ①キャピュレットが婿に選んだパリスの小姓、Ⅰ②ロミオの従者バルサザーが、ともにⅢ③夜警、を伴い登場した後、Ⅴ④領主と従者、Ⅳ⑤キャピュレット夫妻、⑥モンタギュー夫妻―の順で現れ、両家長は灰を撒く。ピィの演出は〈完全版〉にふさわしく、原作の指定にほぼ忠実に人間を動かしており、以上の三つの場面がそれぞれ形づくる劇的「対称」性は忠実に舞台に再現される。
ここまで見たように、この物語はロミオとジュリエットという二人が織り成す悲恋を軸とした流れとは別に、社会的な二つの力の相克が生み出す三つの争いの場を柱とした劇的構造をはらんでいる。悲恋は終幕が迫るにつれ高まりを見せるが、争いという視点から劇的な頂点を形成するのは3幕1場のマーキューシオとティボルトの死の場面だ。
話は飛躍するが、筆者は芭蕉の「おくのほそ道」の構成が、平泉、出羽、象潟の3場面に感動の頂点を持ち、特に中央の出羽が最も高い三峰構造と論じたことがある。さらに、その形状は金融市場のチャート分析に用いる「三尊天井」の概念を連想させることも。横軸に時系列、縦軸に例えば株価を刻んだグラフには、中央が高く、前後に同じ高さの2峰が並ぶ「対称」形状がしばしば出現する。それは、そこまで続いたトレンド(上昇・下落)が完了し、別のトレンドに転換するサインと理解される。この三尊パターンが完成した時点で相場には一定の終結感が生じるが、取引は続き、新たなトレンドを経て、また三尊パターンが登場する。この、仏教用語に由来する概念は次への継続を前提とした読点的存在であり、ヘブライズムの終末に向かう物語と言うより、東洋的輪廻の流れの内にある。
とすると、「ロミオとジュリエット」は、「争い」の物語としては中央の峰を軸に折り返すと前後が重なる三尊天井的「対称」構造をとりつつ、悲恋物語としては右肩上がりの「非対称」性を持つ。言い換えれば、ヘブライズム的時間と東洋的な繰り返す時間という、二つの相反する原理を内包する。
本作では通常、ヘブライズム的時間を前面に押し出した演出が行われる。観客に幕切れで「感動」を与えるのが芸術という考え方は根強く、商業的成功にもつながりやすいからだ。ただ、シェイクスピアのテキストを読み込み、それに忠実たらんとすれば、本質的な劇的構成を反映し、もう一方の「対称」構造を持つ時間も、また舞台上に姿を現してしかるべきだ。その結果、幕切れに向かう劇的昂揚の質が、通念的なメロドラマとは異なり、かつて某国の宰相が連発した「感動」という言葉にはぴったりこない形の上演になるとしても…。今回の「らしくなさ」―例えば、大団円の―は、〈完全版〉に相応しく、シェイクスピアの意図した劇本来の姿が、演出、演技両面で正当に汲み取られた結果と感じる。
ここに言うシェイクスピアの意図とは何か。考えるに、彼が生きた時代から四百年を経た現在も、国家であれ、個人のレベルであれ、世界から争いが消える気配はない。歴史を紐解けば、そうした争いは、若者二人が交わす一度きりの恋などには無関係に、幾度でも繰り返す時間の内に息づくものなのだ。この事実から露わになる人間の本質的な愚かしさと悲しさ。それをリアルに把握せずに、美しい物語にひたることの欺瞞性―これこそ、かの劇聖が強調したかった点であり、この物語を「悲劇」たらしめる根本的な要素ではないか。
本作を最後に「解任」という形で、この国立劇団を離れたピィ自身、在任中は自らの信念を貫くため、争いに巻き込まれ、攻撃の矢面に立つことがあったかもしれない。今回の舞台で、パリスとの結婚を拒む娘に執拗な攻撃性を見せる家長キャピュレットの造型を観て、なぜかそう感じた。そのような争いの体験こそ、ピィがこの悲劇の上演史に一頁を書き加える原動力となったのでは―とつい穿った見方さえしてみたくなる。それほど、この舞台と彼の退任が衝撃だったということだ。
(戯曲の構造をめぐる考察にあたっては、市川真理子氏の論文「『ロミオとジュリエット』の劇構成」〈小樽商大人文研究64号〉を参考にさせていただきました)(了)