■劇評塾卒業生 依頼劇評■
壁と、落書きと、血痕と
奥原佳津夫
いい本を選んだと思った。以前、この劇団の『スカパンの悪だくみ』を評した際、演劇手法の確立した演出者/劇団にとって、取り組む戯曲との距離が重要である旨を述べたが、主人公の少年少女に寄り添いながら、大人たちの世界を戯画化して描いたり、終盤では表現主義的幻想シーンに飛躍したりするこの戯曲の一筋縄ではいかない構成が、この演出者(オマール・ポラス)とカンパニーのシアトリカルな遊びに満ちた仮面劇の手法と相俟って成果をあげることを期待させる、絶妙の戯曲選定と思えたからである。結果は―よい意味で予想を裏切り、戯曲は構成や表現技法という表層を越えて、期待以上に咀嚼、消化されていた。
ピトレスク(絵画的)な舞台づくりに優れた演出者だが、この作品でも視覚的な魅力は存分に発揮されている。
舞台美術は、まず空間を圧するようなコンクリート造の壁。古びて、所々鉄筋をのぞかせながらも厳然としてそこにある。床には土砂が敷かれ、壁に囲まれた砂場のようだ。遠く、鳥の囀りや子供たちの喚声が聴こえて開演。明かりが入ると背景には森が浮かんで、鞄を背負った子供たちが行進してくる。なんともノスタルジックで、甘美でさえある光景。
セノグラフィの含意は、いささか露骨すぎるほどに明瞭である。コンクリート壁(廃校の校舎をイメージしたが)は、大人たちの側の定める規範であり規律であり、時に一方的な先入観でもある。故に、成長したヴェントラは身を屈めて、背丈に合わぬ切穴から自室に出入りしなければならない。砂場は、そこで汚れながら成長してゆく、子供たちの場所である。メルヒオールとヴェントラが出会う森は、コンクリート壁で律することのできぬ外界であり、(題名の示すとおり)自然のままの本能や衝動の領域であり、そして理性の届かぬ深層心理の闇を抱えた空間でもある。性衝動に衝き動かされる少年の幻想として、森の中に少女たちの裸身が浮かぶ耽美的なシーンは、それをよく表している。
演出者は、徹底してアクチュアルな課題としてこの劇を提示する。そして、もちろんそれは正解であり、試験に追い立てられる生徒も、未成年の性の問題も、若年層の自殺も、この19世紀末の戯曲が描く世界は、驚くほどに現代的である。いかに“教育”が変わろうと“科学”が進歩しようと、やはり子供たちは(大人の)社会との軋轢に苦しむし、その苦しみは21世紀の今日に、ますます深く複雑であるかもしれない。
この上演では仮面劇の手法は採られず、俳優たちはカツラと衣装を替えて複数の役を演じ分ける。素顔の俳優の演技はリアリティを持って、観客に主人公たちへの親近感を抱かせるが、それは近代劇的なリアリズム演技とは異なり、一瞬にしてシアトリカルな表現へと飛躍する、云ってみれば、この劇団の仮面の演技を経た上での、その先にある素顔の演技、と評価すべきものだろう。
演出者は得意のシアトリカルな手法で、ショッキングなシーンを生々しく視覚化し際立たせてゆく。ヴェントラの被虐嗜好に触発されメルヒオールの嗜虐性がめざめるシーンでは、ヴェントラの人形を代理に使う(俳優は操られるように人形と同じ動きをする)手際のよい処理で激しい暴力を現前させ、また人形を使うことによって、少年少女の未熟なコミュニケーションを示唆しもする。壁に血痕を残して拳銃自殺したモーリッツの死体が、大人たちの環視の中、警官に引きずられていくシーンは凄惨だし、裏堕胎医らしき老婦人が無造作に手術用手袋をして、掻爬棒を操るうちにヴェントラの断末魔の悲鳴が響く中絶手術失敗のシーンは戦慄的でさえある。
家出少女イルゼが登場するシーンの現代化は目を引く。ストロボライトの激しく明滅する中、街の不良グループめいた一団がなだれこんで、壁に落書きをしてゆくのだ。ここで19世紀のドイツは、現代のどこにでもある都市へと直結させられる。男たちに連れ戻されイルゼが身を潜める都会の夜の闇は、我々のすぐ身近に拡がっている。実際、この戯曲のアクチュアリティを現前させるという意味では、歴史的な文脈は不要だろうし、それほどにこの戯曲の提起する問題は現代の我々に近しい。
この(もちろん原戯曲にはない)落書きは、上演のコンセプトを端的に示すものと云えるだろう。ここでの落書きは、前衛を勘違いしたグラフィティ、ストリートアートの類では断じてない。規制の壁に書きなぐられるのは、“FREE” “Condemned to Agony (逃れられぬ苦しみ)” そしてムンクの「叫び」の戯画―悶え苦しむ若者たちの叫びなのだ。だからこそモーリッツの拳銃自殺は、壁の落書きに、仕上げのような紅の一点を残すのである。
すっかり、心情的に少年少女たちに寄り添って観ていた観客は、職員会議の場面で、客席側から登場した教師に “大人の側” として意見を求められ(直接マイクで問いかけられ)居心地の悪さを感じる。計算の行き届いた演出が心憎いばかり。“大人たち” の場面を、この一箇所に集約したことが効果をあげた。
終幕の墓地の場面の処理は、特筆に価するだろう。
砂場は白い十字架が立てられて墓場となり、モーリッツの亡霊は、石膏像のような白塗りの裸身で壁の上に現れる。メルヒオールを生の側に引き留める「仮面の紳士」は登場しない。その台詞は、子供役を演じた俳優たちが次々に登場し、子供のカツラを脱ぎながら(大人の素顔をさらしながら)渡り台詞のようにして語る。そして、亡き友との再会を約し「いつか俺が禿げるころ…」の台詞を口にするメルヒオールは、少年のカツラを脱いだ、頭頂部の薄くなった中年男である。
それは、自らの時間を止めてしまった(少年の姿のまま石膏像化した)モーリッツに対して、生きつづけて、自らに時間を重ねてゆくことを余儀なくされた者たちの姿だ。つまり、亡霊の死の誘惑を退けるのは、作品の超越的な語り手である「仮面の紳士」(作者ヴェデキント自身が持ち役にし、築地小劇場の本邦初演では小山内薫が演じた)ではなく、生きつづける者たちの総意なのだ。現代的な上演として、実に説得力のある作品解釈だと思う。
彼らは、友人モーリッツの死を悼みはしても、死へと誘う亡霊を「あれはモーリッツではない」ときっぱりと否定する。そうすることによってのみ、生の時間を継続させてゆくことができるのだ。だから亡霊も、「悪かったね」と納得して静かに身を横たえるのだ。
大人になった一同が、冒頭の登場シーン同様、メルヒオールの号令で駆け去ってゆく幕切れは、この作品が、生きつづけ時を重ねた者たちの、追憶の劇でもあったことを思わせる。
この演出者/劇団の演劇表現は、この戯曲を咀嚼、消化することによって、一段の深化を見せたようだ。
―と、ここで筆を擱いてもよいのだけれど、以下、もっと深読みしたい読者/観客のための補足として、作り手の視点がそこに据えられてはいないことを承知の上の、無いものねだりである。
それは、1891年に発表されたこの戯曲が上演禁止となり、初演まで15年を待たねばならなかったのは、劇中の描写が不道徳の謗りを受けるものであったため(だけ)か、ということである。もちろん一義的にはそうなのだが、結論から云えば、ヴェデキントの批判の矢は、過激な題材というに留まらず、更なる深奥に達していたように思うのである。
まず、迂遠なようだが、ヴェデキントという特異な劇作家/演劇人の立ち位置を、演劇史的な背景を踏まえて確認しておきたい。現在、一般には恐らくこの『春のめざめ』と、ベルクの歌劇『ルル』の原作者(『地霊』『パンドラの箱』)としてのみ記憶されるこの生来のアウトサイダーについては、当時隆盛を極めたブレットル(芸術キャバレー)との関わりを抜きには語れない。自らシャンソニエとしてリュートを爪弾いて自作の大道歌を唄うばかりでなく、その詩は各地でレパートリーとして取り上げられた、ブレットルの象徴的詩人である。ヴェデキント作品へのキャバレー文化の影響は夙に指摘されているが、当時のキャバレーが表現主義(反自然主義)芸術の温床であったことも忘れてはなるまい。(作中にムンクの『叫び』を引用したのは演出者の卓見である。)ブレットルの詩人は後に演劇俳優に転身して、前述のとおり「仮面の紳士」や、『パンドラの箱』の「切り裂きジャック」をはじめ、自作戯曲の主要な役を演じることになる。(“現代のメフィスト”と異名されたその怪演は、共演の後輩俳優ヴェルナー・クラウスに影響を残したとも云われる。)
時は19世紀末から20世紀初頭―近代市民社会の成熟に随伴する近代リアリズム演劇の確立期である。その近代劇の完成へと向かう流れをメインストリームとするならば、対立項として、同時期にキャバレー文化から表現主義演劇へと繋がる伏流を捉えるべきだろう。(その支流には、ヴェデキントに私淑したブレヒトがいる。)1906年、マックス・ラインハルト演出による『春のめざめ』初演は、表現主義的手法が勝ってアクチュアリティに欠けるものだった、とは演劇史の教える所だが、彼もまたキャバレー出身の演出家である。
この作者26歳の最初期の戯曲に、異彩を放つ後半生を投影するのは、無論誤りである。にもかかわらず、後年の戯曲に顕著な批判の対象は、すでに明確なのだ―その矛先は、題材としては近代市民社会とその道徳律、表現形式としては近代リアリズム演劇、に向けられる。この戯曲の中で、教師たちが殊のほか戯画化され(身体的な特徴をもじって命名され)バーレスク風に描かれているのは、主人公の少年たちにとって無理解な大人だという劇的な対立構造ばかりが理由ではなく、 “学校” の “教師” である彼らが代表する近代市民社会の規範そのものが、作者の攻撃対象だったからである。
今回の上演では、全体のトーンの中で教師たちの場面が特に滑稽に作られていたわけではない。(尤も、メルヒオールの処置をめぐる父母の会話は、瞬く照明の枠の中、古い映画のような大仰な身振りで演じられ、効果をあげていたが。)この観点からすると、むしろ仮面劇の手法を採ったほうが、原戯曲の作意には忠実だったかもしれない。冒頭、「構成や表現技法という表層を越えて…」と書いたが、表層は核心に触れ、時に表現技法はそれ自体雄弁であるのが、演劇芸術の面白味である。
翻って我が国をみるに、昭和の初めまでは邦訳出版されたいくつかのヴェデキント劇(『死と悪魔』『佝僂の巨人カアル・ヘットマン』など、奇しくも久保栄訳)がその後忘れ去られたことも、近代劇のドメスティックな特殊形態である「新劇」のその後の展開と、上述のヴェデキントの演劇史的な立ち位置に照らせば納得もゆこう。(余談ながら、昭和5年発行の世界戯曲全集版『春のめざめ』(菅藤高徳訳)では、「堕胎薬」は「×××」(伏字)になっている。当時の“道徳律”の一端が窺われて興味深い。)
以上は、評者個人が、そうした背景も含めて『春のめざめ』という戯曲に魅力を感じている、というだけのことで、今回のアクチュアルな上演の成功に、賛辞を惜しむものではない。ただ、この劇団の本拠地スイスや、演出者の故国コロンビアに、どんな近代史があるのかは知らぬが、壁の落書きという“抵抗の身振り”を的確に捉え得たのであるから、喩えて云えば―古びてなお聳え立つ壁の土台(その拠って立つ基盤の史的パースペクティブ)をも窺わせたならば、作品は更に強固で鋭利なものとなっただろう。
(於.静岡芸術劇場 2012年7月1日所見)