■劇評塾卒業生 依頼劇評■
芸能する者たちのデウス・エクス・マキナ
──宮城聰演出『黄金の馬車』批評
井出聖喜
THE FINAL SCENE(大詰め)
喧噪は去り、舞台には座長とカミーラのみが残る。座長が言う。「人生とやらに、カミーラよ、お前の居場所はありはせぬ。幸福をお前は舞台でみつけるのだ。」
カミーラ「フェリペ、ラモン、殿様、みんないない。もう存在しない。……もういないの?」
座長「もういない。見物人の中に消えた。……寂しいか。」
カミーラ「……ええ、少し。」
カミーラ、一世一代の奉納芝居の始まりを言祝ぐように音楽が賑やかに奏でられる中、当のカミーラは幾分うつろな表情で舞台中央に佇立する。
──宮城聰演出の舞台『黄金の馬車』は、こうして華やかさの中に幾ばくかの寂寥感を残して締めくくられる。
THE ASPECTS BEHIND THE SCENES(舞台裏あれこれ)
(1) ジャン・ルノワールの映画『黄金の馬車』の舞台化を
SPAC芸術総監督の宮城聰がこの作品を上演するに至った経緯は「ふじのくに⇔せかい演劇祭2013」プログラムの巻頭に掲載されている。いろいろ述べているが、要するにジャン・ルノワールの映画『黄金の馬車』をいつか芝居にしたかったということ、それに尽きるのだろう。
(2) メリメ作『サン・サクルマンの四輪馬車(カロッス)』からルノワールへ
ルノワールは、プロスペル・メリメの戯曲『サン・サクルマンの四輪馬車』にヒントを得て、『黄金の馬車』を作った。これは換骨奪胎の最良の見本のような作品である。
メリメの戯曲は、一幕物の喜劇(「たいした話ではないが」とか「噂話にすぎない」とかいう部下の言葉の毒に支配者が痺れていく『オセロ』的味わいも加味されている)であり、封建的社会における最下層の人間が支配階級の人間を手玉に取ってこれに勝利するという物語である。(教会的権威に対する俗界の勝利、男社会に対する女の勝利という側面もある。)
ルノワールは喜劇的要素を幾分残しながらも、これを芸能する者たちの栄光と悲哀、屈辱と矜持の物語、更に言えば、女優カミーラの、女優であることが自分のすべてであるとする覚悟と自己発見の物語として作り替えた。その手腕は鮮やかというしかない。
(3) ジャン・ルノワール『黄金の馬車』
赤い緞帳を背景に「イタリア様式のこの芝居、時は18世紀初頭、所は南米スペインの植民地……時にイタリアの役者一座、夢を抱いてこの新世界に流れ来る」と字幕説明。
さて、緞帳が上がると、そこは総督府。紳士淑女が「黄金の馬車が到着した」と大騒ぎ。総督が発注したのだ。その馬車の後を字幕説明の通り、コメディア・デラルテ(即興仮面劇)のドン・アントニオ一座が付いてくる。彼らは朽ちかけた小屋を修理し、劇場を作り、興業を行う。
看板女優のカミーラは、自分たちの芝居が客にうけたか否かにすべてを賭けて舞台に立っているが、その熱情と気っぷの良さに闘牛士ラモンと総督フェルディナンの二人は惹かれていく。
舞台終演後のひとときを共に過ごそうと誘う花形闘牛士にカミーラは悪態をつくが、彼はそれにも動ぜず、純血種の暴れ牛のようだとむしろ喜ぶ体(てい)。
一方総督は、飾り気のないカミーラの言動にほだされて人前では決して外さないかつらを取る。ひとしきり愉快に笑った後で言う、「本当に笑えることなど滅多にない。」と。彼は自分の恋心の証に黄金の馬車を彼女に贈ると言う。このことはやがて他の貴族たちの反発を招き、総督を窮地に陥れることになるが、それにも構わず、彼は彼女への恋心を貫こうとする。
更に、一座に同行してきたフェリペも彼女を愛しており、二人で一座を飛び出す口約束までしている。彼は、総督から金のネックレスを贈られて喜んでいる彼女に腹を立て、一座を飛び出すが、やがてもどってくる。原住民の言葉を覚え、彼らと共に生活してきたと言う。そして、自然と共にあるその素朴な生活を賞賛し、自分はそこに戻る、お前も来ないかと誘う。
熱情をもって自分に求愛する三人の男たち──彼女を巡って決闘まで始める彼ら──のいずれにもそれぞれ憎からざる思いを抱いているカミーラは「舞台だとうまくいくのに人生だと愛するものをこわしてしまう。」と嘆く。
「嘆くな。我々役者は世界中が我が家だ。出発しよう。」と言う座長に対して、「ここにいるわ、私の馬車と一緒に。」とカミーラは答える。
残ったところで彼女の人生は惨めなものになるだろうと、映画を見ている我々が思っているところに突如として大団円が訪れる。大司教が登場、カミーラが馬車を教会に寄付したこと、そしてミサで歌を歌うこと、その平和と和解のしるしに総督、貴族、貴婦人、庶民に役者一行まですべてがミサに出席すべく要請することを告げる。
中幕が下りる。「カミーラの勝利を祝い、新作芝居を上演する」との座長の口上。「だが、主役が不在。……カミーラ、舞台へ!」
座長の呼びかけに応じてカミーラが登場、芝居が始まる。そこに座長の言葉がかぶさる。
「人生とやらにかかずらうな。お前の居場所はそこ、道化や曲芸師、役者たちの間。幸せは舞台でのみ見つかる。お前が演じるのは真実のみ。」
そうして、緞帳が下りる。その緞帳を背にしてカミーラは立つ。
「フェリペもラモンも総督も、皆消えた。去った。もう、いないの?」
「消えたのだ、客席の中に。……寂しいか?」
「少し。」
(4) 宮城聰版『黄金の馬車』に付け加えられたもの
宮城はこれを舞台化するにあたって「ルノワールの『黄金の馬車』を舞台化したい」という素朴で単純明快な思いを守った。メリメの戯曲に対してルノワールが見せたような「作り替え」をルノワールの作品に施すことはしなかった。舞台の基本設定を室町時代の田楽一座美也古座が土佐に渡って芝居を打つという形にしたこと、一座の演じる劇中劇に『古事記』の有名なエピソードのいくつかが取り入れられていること以外は驚くほどルノワールの映画に忠実である。要所の台詞もほぼそのまま用いられている。彼がルノワールの映画に敬意を払い、これを愛していることは、基本設定を変更したにも関わらず登場人物の名をルノワール版のそれと同じにしたという一事からも窺われる。美也古一座は、いわば戸籍謄本を持って日本の各地を旅しているようなものである。
さて、一方宮城にはこの作品を自らが芸術総監督を務める静岡県舞台芸術センター主催の「ふじのくに⇔せかい演劇祭2013」の開幕作品として上演するという役割が与えられている。昨年の演劇祭の開幕作品は『マハーバーラタ』であり、当然これも宮城演出である。この作品は再演とは言い条、野外劇として新たに作り直され、圧倒的な昂揚感の中で芝居の祝祭性、神との親和性を提示してみせた。正に演劇祭の開幕を告げるのに相応しい上演だった。
それであればこそ、上述の如く「幾ばくかの寂寥感を残して締めくくられる」この新作にそうした、芝居の原点を呼び起こすものとしての祝祭性をいかにして盛り込むか、ということが宮城にとっての一つの課題だったはずだ。その答えが劇中劇としての『古事記』だったと思われる。
(5) 宮城聰版『黄金の馬車』舞台空間
この作品は日本平中腹にある舞台芸術公園内の野外劇場「有度」で上演された。何度かここに足を運んだ者が今回劇場に足を踏み入れると「おっ」と驚くことになる。舞台空間の設営がこれまで上演されたどの作品とも異なっているからだ。端的に言えば、舞台と客席とが倒錯しているのだ。
この劇場はギリシアの古代劇場を模した作りになっており、すり鉢を半分に割った、その斜面が客席、底面が舞台となっており、観客は舞台を見下ろすようにして鑑賞する。
ところが、この作品では、底面にある舞台の奥をぐんと広げ、そこに緩やかな階段状の客席を臨時に設営している。そして、そこから本来の客席を見上げるとそこが舞台空間として作り込まれているのがわかるという仕組みになっている。すり鉢の底面もまた舞台として使用されており、要するにこの舞台では観客と同じ目線でとらえられる低い空間と、そこから後方に行くにつれて徐々に高くなる空間の両方を必要としているということなのだ。
舞台が進行していくと容易に察せられるのだが、高い空間には基本的に領主や貴族を、低い空間には役者たち及び観客としての農民たちを配置することで、元々の客席の階段に人々の社会的ヒエラルキーを視覚化する装置としての役割を担わせているのである。
舞台を階段状にし、そこに階級制を象徴させるという手法は特段目新しいものではないが、現実の観客たる我々がいつもの場所を追われ、茶畑の上に座らされているというのは、この舞台を鑑賞するのに面白い視座を与えてくれる。
ギリシア悲劇ではすり鉢の底にうごめく登場人物を神の視点から見下ろすことになるが、この舞台では我々観客は否応なく旅役者や農民たちといった下層階級の人々と同じ位置に立って物語の進行を見届けることになる。
さて、美也古座の役者たちの舞台はすり鉢の底面(そこは八幡様の境内である)の中央に設置された丈高の山車のような、簡素な木組みの建造物である。四囲に細身の柱が立ち、上部は切妻型の屋根を形成し、正面には几帳が掲げられている。
これは言うまでもなく、この芝居の、そしてもちろん劇中劇としての田楽芝居の祝祭性の象徴であり、それらが奉納芝居として神と民衆とに供されていることを表している。
(6) 劇中劇としての『古事記』
劇中劇として土佐の村人たちの前で演じられるのは『古事記』の有名なエピソードである。「伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の国生みの話」、「黄泉の国を訪ねる伊邪那岐の話」、「天照大御神(アマテラスオオミカミ)が天の石屋戸に隠れる話」、「須佐之男命(スサノオノミコト)の八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)退治の話」、といったところだ。
これらのエピソードは、生命の誕生と性にまつわること、死の恐怖、天変地異への畏れと「魂鎮め」としての芸能、そして冒険をそれぞれ表し、更には各エピソードを貫くものとしての「愛」がある。要するにこの挿話には民衆がこの世に、そしてまた人生に求めるものの最も素朴な原形が、労働の苦と楽以外すべて備わっていることになる。
役者たちも「素朴な原形」に相応しく、様式化された動きの中に健康な猥雑さ、異界の者のグロテスクな相貌、滑稽味などを分かりやすくストレートに表現している。(さて、ここで言う「役者たち」とは、美也古座の役者たちのことなのか、それともSPACの役者たちのことか、評者にも判然としない。呵々。)
分けても印象に残るのは伊邪那美を慕って黄泉の国を訪れた伊邪那岐が彼女の怪異な姿を覗き見る場である。この場面は最初、舞台後方の高いところに控えている貴族たちに向けて演じられ、我々現実の観客たちは、役者たちの芝居を裏側から見ることになり、面白い趣向とは思うものの隔靴掻痒の感も免れない。──と思うと、次の場面では同じ芝居が村人たち(そして、彼らのこちら側にいる我々現実の観客たち)に向けて演じられる。この時、伊邪那美の猛り狂う姿が、貴族向けの上演の時にはなかった赤と黒を基調とした衣装の工夫と演技との相乗効果で「あっ。」と驚くような凄みを感じさせるものとなっている。
一方、天照大御神の気を引くために、神々の喝采の中で踊る天宇受売命(アメノウズメノミコト)が梅干し婆さんであるのも笑わせる。ご丁寧にもだらーんと垂れ下がったしわくちゃおっぱい(もちろん作り物であるから安心されたい)を見せてくれる。
(7) 美加理の演技
本作で主役のカミーラを演じたのは、宮城聰演出作品の多くで主演を務めてきた美加理である。彼女はこれまで硬質な、透明感のある役柄に本領を発揮してきた。『王女メデイア』のタイトル・ロールにしても『天守物語』の夫人冨姫にしても、然りだ。しかし、今回は、伝法ではすっぱな物言いに河原者の心意気を見事に表出してみせた。2001年静岡芸術劇場の公演、原田一樹演出『サド侯爵夫人』で侯爵夫人ルネを演じた時、その口跡の美しさに驚いたが、あの時の理知的にして正確無比な台詞術とは打って変わり、ちょっと下世話にくだけたしゃべりには、あえて言うなら鉄火場の女といった風情すら漂っていた。
THE FINAL SCENE AGAIN(再び、大詰め)
黄金の馬車を神社に寄進することでカミーラは窮地を切り抜け、大宮司から奉納芝居の要請を受けることになる。物語のこうした回収方法は、見方によってはご都合主義とも牽強付会とも取られかねない。
実は同様の設定は、メリメの『サン・サクルマンの四輪馬車』にもあるが、こちらは追い詰められたカミーラ・ペリコールの起死回生の秘策、奸智の勝利とも言うべきものになっている。
しかし、ルノワール版、宮城版含めて『黄金の馬車』の唐突な終幕の展開には人生を断念し、芝居の世界に生きる道をぎりぎりのところで選び取ったカミーラの十分苦い決断が隠れている。この芝居におけるデウス・エクス・マキナは、カミーラのそうした心理的転回点の中に身を潜めていたのである。
「フェリペ、ラモン、殿様、みんないない。もういない。……」
この台詞を聞いた時、我々観客は、土佐の守とカミーラが心を通い合わせる前半の場面が舞台の一番奥の高い所で演じられていたのを思い出す。そして、あの時ちょっと不満だったのを。
……こういうドラマはもっと舞台の前面で見せてくれなくちゃ。普通の芝居だったら絶対こんな扱いはしない。ルネサンス時代のバルコニーに姿を現したキャプレット家の娘だってもう少し観客に近い所にいたんじゃないか、と。
我々は今その不満の表明を撤回しなければならない。舞台の一番高い所(即ち観客から最も遠い所)で殿様の心を勝ち得たカミーラが、一番低い所(我々に最も近い所)で彼を始めとした男たちへの訣別を語るという、その鮮やかな“縦移動”にこそ、彼女を取り巻く世界の構図が、これ以上望めぬほどくっきりと我々に提示されていたことを発見するからだ。
ところで、この舞台は、広義にはバック・ステージ物ということになろう。旅芸人たちの仕事(つまり舞台)の裏表が描かれており、俗に言う「入れ子構造」となっている。
しかし、終幕の場面を思い起こすと、それほど単純なものとも言えなくなる。「舞台を取るか人生を取るか」というカミーラの選択は、そっくりそのままカミーラを演じる女優にもつきつけられているからだ。即ちこれは、三重構造の舞台ということになる。
とすれば、こういう舞台を主演女優に提供する演出家の思いとはどんなものだろうか。もちろんそれは愛情には違いない。が、しかし──。
……演出家宮城は今回この舞台の主演女優美加理にとびきり美しい花束を渡した。しかし、その花束は幾分危険な花束である、刃をその内に隠して「あなたはどうなんだ」と迫っている風である、とは言えないか。
一方、この花束を受け取った美加理はどのように応じるだろう。「ありがとう」と、しれっと言ってはぐらかすだろうか。それとも……。
それはわかろうはずもない。何しろ女優なのだから。