劇評講座

2013年9月24日

■依頼劇評■白い闇を見詰めて クロード・レジ演出「室内」論 柳生正名さん

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

白い闇を見詰めて
クロード・レジ演出「室内」論

柳生正名

 今年の梅雨は、首都圏では7月上旬に歴史的な早さで明け、例年なら梅雨雲にさえぎられる夏至直後の直射日光が地を灼くことになった。まばゆい昼間の出来事は陽炎のように揺らぐ夢であり、夜の闇こそ現―。そんな感覚を持つに至ったのは自分だけではなかろう。
 もっとも、この倒錯した現実感の責任を異常気象ばかりに押し付けるのは、こと自分自身の場合、不適切だ。梅雨明けの少し前、クロード・レジ演出によるモーリス・メーテルリンク作「室内」の日本人キャストによる上演という歴史的事件に出会った。このことが多分に影響していたように思われてならない。
 ◇光の闇、音の闇
 レジ演出の「室内」は全き闇から始まる。それは光の闇、というにとどまらず、音の闇すなわち完全な静寂も伴う、文字通り真の闇の中での幕開きだ。
 この「室内」、実は幕開きより遙か前、観客が客席に足を踏み入れた瞬間からすでに始まっている。場を支配するのは圧倒的な緊張感であり、その結果としての深い音の闇だ。それが1時間半を超える舞台の前奏曲にもっともふさわしいものであったことに、開幕後、観客は気付く。
 幕も客席との段差も存在しない舞台上には、白い砂が敷き詰められる。開幕前、舞台上には一切の人も物も存在しない。やがて、客席を幽かに照らすアンバーライトが落とされ、劇場内は真の闇に包まれる。感覚が徐々に研ぎ澄まされ、自らの心音が外にも聞こえてしまうのではないか、と気に懸かり始めるほどの間、闇は続く。
 それは、虚像なのか、実像なのかも定かでない闇の中の影として現われる。微弱な照明がやや明るさを増し、闇が床に敷かれた砂のかすかな反射光で「白い闇」へと移ろう中、影は子供と、それに寄り添う大人の女性らしき形を結ぶ。二人は舞台下手奥から、無言のまま緩やかに歩みを進め、立ち止まり、女性は床に子供を横たえる。あたかも、死にゆく子と、その子を死にいざなう死神だ、と視る者に思わせる暗さと静寂の中で。
 「室内」には、幸せに暮らす家族が登場する。時は夕暮れ時。物語が始まる直前に、家族の娘の一人が川で溺死しているのが発見された。家族はその事実をまだ知らない。
 舞台は中央より奥がこの一家の暮らす家の中であり、家族の挙動は台詞なしのパントマイムで表現される。そこが「室内」であることは、幕開きの闇からゆっくりと明るさを増していく照明が、舞台上の白砂を舞台奥の明るい部分と手前の暗い部分に分けることで分かる。「室外」は照明の暗い部分である。
 冒頭、子供が横たわったのは奥の「室内」にあたる場所で、実は母親が子どもを寝かしつけるという微笑ましい場面だったのだ。ただ、そのことが分かるのは、遅れて「室外」にゆっくり現われる老人と若者が交わす言葉によってだ。一家をよく知る老人は娘の死を発見した若者を連れ、事故を家族に知らせにやって来た。が、窓から団欒の様子をうかがうにつけ、一家の幸福を台無しにすることに逡巡し始める。
 「室外」では娘の死を知る老人や若者、後から遺体を運んでくる老人の孫娘らが囁くように言葉を交わすが、「室内」で語られているだろう言葉は「室外」には一切聞こえない。砂の上に明暗の境界で表現された「壁」のせいで、そこに開いた窓を通じ、内部の家族の動きこそ「室外」からも見て取れるが、音は完全に遮断される、という設定だ。
 「壁」は幕開きから終幕まで、頑として存在し続け、白砂の上の境界線が跨ぎ越されることは、たった1度の例外を除いてない。
 二の足を踏む老人たちをよそに、娘の遺体を載せた担架が近づいてくる。葬列が家の前に到着したとき、老人は「室外」と「室内」の境界線を跨ぎ越す。それまで徐々に光度を増してきた照明がその明るさ(それでも、まだ薄暗いが)の頂点に達した瞬間、「室内」の動きは一気に加速し、観客の目にも何が起こったか、整理のつく時間的余裕を与えない素早さで、家族は全員姿を消す。床に横たわる子どもひとりを除いて。
 ◇「生きている時間」
 作劇上、「室内」に特徴的なのは、もっとも劇的な事件である「娘の死」が幕開きの時点ですでに起こってしまっていることだ。舞台上で演じられるのは、それが家族に知らされるまでの時の狭間の出来事に過ぎない。
 娘の死の場所は川で、オフィーリアと共通する。その分、シェイクスピア「ハムレット」との対照でますます、事後性が強調される。ハムレット(それに代表される伝統的な西欧の演劇観と言い換えても良い)では、この一人の娘が死に至る経緯と、その死の結果起こる事件こそが劇性の根幹をなす。
 これに対し、「室内」では死の背景も、それによって巻き起こされる新たな事件も描かれない。あえて言えば、娘の死と幸福そうな一家の時の狭間に立たされた老人たちの内面に、事実を伝えるか否かの葛藤が投げ掛ける波紋。「室内」をリアリズムの延長線上で舞台化する場合、ここに焦点が当てられるだろうことは想像に難くない。
 しかし、「『リアリズム』はテレビに任せておけば良い」と公言するレジである。彼の演出では台詞を語らない「室内」の一家はもちろん、「室外」の老人たちさえ、ゆっくりとささやくように、不思議なイントネーションの日本語を、緩やかな歩みや上体の動きと連動させつつ語るのみ。
 その内容も、多くは娘の死という事実や「室内」の家族たちが見せる動きへの説明的言及、つまり通常では〝と書き〟にあたる性格のもの。レジ自身はそこに台詞と所作が別の担い手に分離される文楽との共通性を見出しているが、身体演技の質も能楽の様式性を思わせ、登場人物の内面描写をリアルに行う性格のものではない。
 内面的な緊迫を身体の動きに解消させず、むしろ内向させることで、闇に輝きを与えた演技陣の日本的身体、舞台空間により深い光と音の闇を引き出した横山義志の訳も、そうした演出意図を完璧に体現するものだった。
 こうして、メーテルリンクとレジの造型する人物たちは、老人が家族に真実を伝える瞬間を除き、劇的には全く行動しないに等しい。老人の行為すら、いずれ家族が知らざるを得ないことを伝える受動的なもの。「室内」は一幕劇の形を取るが、通常の演劇観からは、劇の一幕としてすら成り立っていない。 
 ここで注目すべきなのはメーテルリンク自身が語った次のような言葉だ。「ハムレットは行動しないからこそ、生きている時間がある」。この「生きている時間」とは何か。
 ◇枯山水としての「室内」
 舞台の上に敷き詰められた白砂。その上に差し込む光が作り出す「室内」と「室外」を分かつ境界。彫像のようにたたずみつつ、実はゆったりとした動きをはらみ、囁くように台詞を語る俳優たち。記憶の内に、これに近いイメージを探すとき、行き当たるものがある。禅刹の石庭だ。
  方丈の大庇より春の蝶  高野素十
日本独特の様式とされる枯山水の庭、京都・龍安寺の方丈庭園で詠まれた一句だ。一面に砂が敷き詰められ、三方を土塀、残る一方は住職の居住場所である方丈に囲まれたこの庭。内部には一木一水も存在せず、計15の石が一見、不規則に配置されるのみ。通常、人間がそこに入り込み、歩くことは許されない。方丈から突き出した大きな庇、その下の濡れ縁に坐して、観照するための庭だ。
 当然だが、石は動かない。ただ太陽の動きに従い、庇や石が砂の上に落とす影は刻々と変化する。春には庇越しに蝶が舞い降り、石の上に舞い降りることもある。夜は月光に照らされ、雪が降れば積もり…庭は数百年、その姿を変えないが、刻々とその見え方は変貌する。面白いことに、15ある石の配置は絶妙に計算され、濡れ縁の上のどこから見てもすべてを一度に観ることはできない。必ず、ある石が別の石の陰に隠れる。
 レジが演出した『室内』という静劇の客席に身を置くことは、枯山水庭園を前に坐す体験と似通っている。舞台上の「室内」と「室外」は、枯山水が大庇の落とす影で二分されたようだ。緩やかにしか動かない役者らは日の光の変化によって微妙に姿を変える石の影さながら、彼らが囁くように語る台詞は、庭を渡る風のたてる幽かな音―。
 枯山水庭園を生んだ禅仏教の根幹にあるのは坐禅である。修行僧は時に枯山水に向かい座す。坐禅は一切の行為をやめ、完全な不作為を目指す行であり、「行動しない」とメーテルリンクが語ったハムレット的、つまりは観照的な生のあり方とどこか共通する。
 ただ、坐禅が道場で集団的な行として行われるとき、それが単に受身で消極的な不作為ではなく、「何もしない」ことを能動的、積極的に「する」作為として取り組まれることは、その場を体験した者なら、自然と受け入れられる実感だ。
 半ば開き、半ば閉した眼は特定の何かを見詰めることをせず、道場内は静寂に閉ざされる。外的な感覚の大半を遮断することで、内的感覚が研ぎ澄まされ、自らの内にあり、世界へと切れ目なくつながっている生の本質的なありようが、死との親近性の中で、おぼろげながら、像を結び始める。そうした生の実感を、静止した時間性の内に象徴的に造形したものが枯山水だ。メーテルリンクが「生きている時間」と表現したものと直接的に重なるものだろう。
 これは今回、道場さながらの緊張感をはらんだ劇場内で観客が受けとめた体験そのものでもあったのではないか。「室外」に立って「室内」の家族の幸福そうな様子を窓越しに見続け、逡巡する老人はふとした瞬間、「われわれもまた見られているのだ」と漏らす。
 この一言は「室内」と「室外」に区切られたこの舞台に、じつは「客席」というさらなる外部があり、そこに坐する者の眼差しが存在することを思い出させる。あたかも、龍安寺の枯山水では、庇の下に坐す人間にはすべての石を見取ることはできなくても、大庇越しに舞い降りる蝶の目のように瞬時にすべてを見通す眼差しが存在することが理解されるように。
 やがて、老人が家族に事実を伝え、その直後に「室内」は横たわる一人の子を残して、無人となる。と、室外の白い闇の内にたたずむ影がこう漏らす―「あの子は目を覚まさなかった」。そして、閉幕。
 物語が始まる前に閉ざされたひとつの命と、物語が閉じるまで目を開くことのない、それでいて、これから人生を始めるひとつの命。冒頭、この子どもが寝付くさまをあたかも死にゆくさまと受け取った者にとって、現象的には全く正反対の動きを見せる、この二つの命の間に、たとえば蝶の俯瞰的視点を通し、不思議な、しかし明白なつながりが見て取れるに違いない。それは「能楽では死の世界と生きる者の世界が近いように、メーテルリンクのシナリオでは生者と死者の世界が交じり合っている」と語る演出家の意図にも、かなうことだ。
 そんな思いが頭の中で渦巻く中、観客の一人として物語の終了を告げる完全な闇の中にしばし坐した。見終えたものを言語化して理解することに絶望感さえ覚えつつ、一方、それこそが、ほとんど静止した舞台の白い闇の中で「生きている時間」を実感させる「レジ魔術」とでもいうべきもの、という思いを噛み締めもして。
 しばらくの後、アフタートークに姿を現したレジにその思いをぶつけると―「そのような絶望感に慰めは必要ありません。人間の奥底(の闇)まで沈んで行ってください。そこに行きつくことができれば、意味ある人生を実感できるはずです」が回答だった。それこそが真に「生きている時間」だ、と言いたげな口ぶりで。(了)