劇評講座

2012年11月9日

■依頼劇評■【<おたる鳥>に羽毛はあるか 黒田育世・BATIK「おたる鳥をよぶ準備」を観る】阿部未知世さん

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

<おたる鳥>に羽毛はあるか
  黒田育世・BATIK「おたる鳥をよぶ準備」を観る

阿部 未知世

1. 地方都市の不遇
 浜松(静岡県)という地方都市に住んで、舞踊に関心を持つことには、多くの困難が伴う。
 政令指定都市にしていまや人口80万の浜松市。その最大のホール、アクトシティ大ホールでのバレエ公演は、1994年の落成から現在(2012年)までほぼ18年で、34公演。単純計算で1年に2公演。クラシックバレエについて言えば、ボリショイバレエやニーナ・アナニアシヴィリなど世界最高水準のカンパニーや個人の、「白鳥の湖」に代表されるスタンダードな演目での公演は確かにある。しかし、個人の創造性が全面に押出されるコンテンポラリーダンスとなると情況は一変し、シルビィ・ギエムの2公演に尽きる、と言って過言ではない。(1)
 この地で、日々創造されるコンテンポラリーダンスに関心を持つとなると当然、わずかな映像記録(ネット動画として配信されることが増えたとは言え)と、文章化された記録に頼らざるを得ない。限られた情報と貧困な想像力。この二つのみで今日のコンテンポラリーダンス情況を理解しようとするには常に、ドン・キホーテとなる危険が伴う。まったく見当違いな理解をしているのでは、という危惧の念が常に付きまとっているのだが……。

2. 黒田育世という存在
 今回、黒田育世とそのカンパニーBATIKが、<ふじのくに⇄せかい演劇祭2012>において、世界初演の作品を上演するという。それも野外舞台の「有度」で。演劇祭の最終演目として舞台にかけられるのが、6月30日(土)と7月1日(日)。梅雨さなかのこの時期、雨を免れて上演できる可能性は、かなり低い。<踊る(やる)方も根性なら、観る方も根性だ>と。一種、悲壮感が伴う決意をせざるを得なかった。
 何故なら、それまでにDVDとなった2作品(「ペンダントイヴ」と「BYAKUYA」)を観ただけの人間にとっても、黒田育世が創出する世界は、あまりに激しく、時に暴力的な力となって観る者を、のっぴきならない処へと引き込んで行く。
 それは当然、黒田自身そしてカンパニーの全員が、自らをぎりぎりまで追い込むことでかろうじて可能となる。そこではロマンチシズムも甘さも、想像力さえもが切り捨てられ、ものごとはあたかも、表皮をさらに剥かれた原初のかたちとなって顕われる。
 そんな冷酷とさえ言える、切羽詰まった、ただならぬ空間を、観客として共有することは、正直かなりしんどい。
 DVDで初めて観た「ペンダントイヴ」はまさに、強い衝撃だった。思いつめたように顔を引きつらせ、鋭い金切り声を上げて駆け回る少女。その少女を自らのスカートの中に包み込んで、あたかも自らの子宮に戻そうとするかのような無表情な母親……。
 唐突にもその空気に、世紀末ウィーンに生まれた画家エゴン・シーレの、ひとつの自画像が重なった。手足の先が既に失われ、性器をさらして赤黒い肉の塊となりつつ、観る者を見つめ返す自画像。観る者に、生皮を剥がれた痛み、それも冷たい風が吹きつけてひりひりと痛む、その痛みを実感させる絵画。その絵を眼の前にした時と同じ感覚を生じさせたのだ。
 そしてこの度の<おたる鳥…>。そのテーマはダイレクトに、<死ぬための準備>なのだと言う。女性誌、『フィガロジャポン』のインタビューを受けての黒田の発言を要約してみよう。(2)
 <おたる鳥>とは、黒田の造語。その<おたる>とは、身体にあらゆる感情が満ち足りて、自然に動き出すことを表す言葉で、<踊る>の語源との説もある。内なるものを、理性的に表出するのではなく、抜き差しならない本能的な何ものかとして噴出させる黒田の表現の在り方の、これはまさに核心をついた言葉ではないか。
 その<おたる>が何故、鳥になり、死の準備と繋がるのか。命を手放した肉体を、鳥がついばむ。ついばまれた身体は鳥に運ばれて世界の各処にまき散らされ、やがて植物、食糧となって人間を喜ばせ、満たす。その満たされた身体は生き生きとまた、踊り始まる。そんな鳥のイメージが、まずもって黒田に宿った。
 その黒田には、<人は死なない>という思いがある。死とはすなわち、<死なれる>という体験。死ぬ側ではなく、死なれる側にゆだねられた事象。大切な人の死を自らの内に積み重ねて、最後に自分のすべてを縁者に渡して……。死者となった縁者は、私の中で生き続ける。そして死者となった私は、親しい誰かの中で生きて……。その意味で人は死なない。人の生とは、ただそんな繰り返しだけなのだ。<おたる鳥をよぶ準備>という作品は、こんな思いが結実した作品なのだという。

3. おたる鳥の生成
 公演二日目の7月1日は、朝から激しい雨が続いた。公演前、夕闇が迫る中、階段状の客席の最上階にある入り口に立って、最初に舞台を見降ろした時の驚きはしかし、その雨の凄まじさではなかった。
 緑色の人工芝が一面に敷き詰められただけの舞台に、ひとりの女性が倒れている。びっしょりと濡れて、ぐにゃりと脱力して。やがてその人は起きあがり、続く一連の動作の後、舞台袖に消える。しばらくすると彼女はまた現れ、ひと繋がりの動作に入り、途中でぐにゃりと倒れ、また起き上がって動作を続け、舞台袖に消える。開演前、観客の入場とともに(もしかするとその前から)パフォーマンスは延々と繰り返され……。やがて開演となる。
 舞台は常に極めてシンプルな空間で、はじめは緑の床に、背丈よりも高い緑の板が一枚立っているだけ。その板には、世界地図が貼られている。ここから、黒田を含むBATIKの10人の女性ダンサーによって、<おたる鳥>の寓話が紡ぎ出されて行く。ライトに照らされた強い雨が、激しく渦巻くこの空間へと。
 10人のダンサーの配役は、主人公の黒田、その分身のような存在、さらに超時間的な存在がいて、他の7人はいわばコロスのように働く。
 物語は大きく、三つの部分からなる。
 第一の部分は少女の頃のこと。ひとりだけ孤立した少女がいる。彼女は、口一杯に世界地図の切れ端を詰め込んで、歪んだ身体のまま身動きできない。やがて少女は意を決して、口の中の地図の断片を吐き出す。すると身体の歪みは消え、軽やかに踊ることができた。やがて少女たちは肩を組んで、ワッハッハッハ……と大声で笑いながら踊り続ける……。
 第二の部分は、大人になった少女のエピソード。舞台上手で女(黒田)がひとり、時に顔を引きつらせながらバキバキとした激しい動きを繰り返す。舞台中央では、もうひとりの女が膝まづき、目を閉じて苦しそうにひとつのオブジェを差し上げている。そのオブジェは、ふたつの乳房を持つ女の胸をかたどった、花器のようなもの。膝まづいた女はやがて立ち上がり、しなやかな動きとともに、一番星に掛けた願いを叶える、あたかも希望のような存在となって、ふたりの女は抱擁する。再び左右に分かれるふたり。ひとり(黒田)は、以前より少しなめらかに動き続け、もうひとりはやがて床にずるりと倒れ込み、コロスのひとりと性交を始める。
 このパフォーマンスが繰り返される中、舞台上に高々と掲げられた洗濯物が、時折、それを吊るしたロープごとバシャッと落ちる。やがて再び、するすると掲げられてはまた……。舞台空間は、まるで傷ついたレコードが、繰り返し同じ音を再生するように、一連のこの情況を執拗に繰り返す。
 初めぎこちなく動いた女は、内なる希望と出会うことで、踊り続ける人となる。その踊り続ける人は、単に個人であるにとどまらず、日常にどっぷりと沈み込んで生きる、生活者としてのすべての人でもある。そんなメッセージが伝わるシーンの後、踊る人はやがて息絶え、埋葬されて土へと帰る。
 そして最後の光景。主客が転倒して、観客は劇場の底としての舞台へ。そして無人の客席上段で、いまや<おたる鳥>となった黒田が、ただひとり、力強く踊り続ける。踊る<おたる鳥>と、見上げる私たちの間には、描かれた裸の女たちの絵姿が並んで……。

4.<おたる鳥>の……
 休憩時間も含めて、3時間超のこの作品。終演とともに私を満たしたのは、決して心地よいものではない複雑な思いだった。拒否感と痛々しさ。強いて言葉にすれば、このような感覚だった。
 それは、観る側もまた全身びっしょりと雨に濡れ、身体の芯まで冷えていたからのことでは、決してなかった。
 とりわけ痛々しく心に焼き付いて離れなかったのが、ふたつの場面だった。そのひとつが、力強く飛翔する<おたる鳥>の足下にあった裸の女たちの絵姿。何故なら、青空の中に描かれた女たちは、どういう訳かみな、痩せた不格好な肢体をさらしている。顔つきも決して、知的でも美しくもない。何故女たちは、こんなにも寒々とした貧相な存在でしか居られないのか。そして、執拗に繰り返された洗濯物のシーンも。女性の日常とは、こんなにも想像力を奪う、幻滅に満ちた辛いものなのか。時間とともにその疑問は、大きく育って行った。
 この公演と時を接して、四つのダンスパフォーマンスを観る機会があった。フレデリック・ワイズマン監督のドキュメンタリー映画、「クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち」。ニーナ・アナニアシヴィリとグルジア国立バレエによる「白鳥の湖」。イギリスロイヤルバレエ団が踊る、映画「ピーターラビットと仲間たち ザ・バレエ」。金森穣の演出・振付、Noism 1による「Nameless Voice~水の庭、砂の家」。
 パリで最も注目を集める先鋭的なキャバレー<クレイジーホース>。そこで上演されるショーの制作ドキュメントである「クレイジーホース…」に登場するダンサーたちは、コンテンポラリーダンスのフィリップ・ドゥクフレの振付のもと、誇らかに裸身をさらし、同性をさえ強く魅了する。彼女たちの裸身は、充分にエロティックでコケティッシュであるが、彼女たちの存在自体は、ショーのタイトル<Désirs(欲望)>とは裏腹に、欲望の対象物からはかけ離れて誇らかだ。
 今回のツアーで「白鳥…」を舞い納めるアナニアシヴィリはまさに、可憐でロマンチックな白鳥と、華やかで毒を秘めた黒鳥を踊ったのではない。強いオーラを放って自らの内奥から、それらの存在そのものとなっていたのだ。
 ブタ、アヒル、カエルなどなど、動物の着ぐるみを纏って本格的なバレエを踊る、確かなテクニックに立脚したイギリスロイヤルバレエ。彼らが生み出すユーモアと機知に富んだ物語世界は、子どものみならず、大人をも充分に魅了する。たとえそのユーモア感覚が、自らの好みとはちがったとしても。
 水が強く意識されたNoism1の舞台では、出産直前の妊婦が破水する光景を思わせる、砂を使った衝撃的なシーンがあった。津波が引いたばかりの泥濘の中、新たな生を生きようとする人々を思わせる、力強くしなやかな群舞が続く、印象深い光景で舞台は締めくくられていた。
 ジャンルも個性も大きく異なって、しかも大きな感動をもたらす4作品とは、まったく別の地平に展開する、強い痛みを伴った「おたる鳥…」。ここに登場する存在は何故、こうまで無残で痛々しく感じられるのか。
 改めてこの問題に向き合い、その答えを探ってみよう。
 言うまでもないが、<コンテンポラリー>とは、<同時代の>という意味を持つ。<同時代のダンス>とは、今を生きる人々の問題意識や思いそして美意識など、この時代のすべてを反映してやまないもののはずだ。
 そのジャンルでの身体表現を志向した黒田は、理性で創造するのではなく、自らの本能のレヴェルにまで沈潜して産み出すタイプの表現者である。本能のレヴェルとは、人間の精神活動において、それぞれが広大な世界として内包している無意識の領域と、より近く存在している。
 スイスの精神医学者、カール・グスタフ・ユングは、その豊富な臨床体験から人間の無意識領域について卓越した理論を樹立した。彼によれば人間の無意識とは、幾重にも層をなしたもの。無意識領域に比べれば小さな世界でしかない個人の意識の領域に、比較的近く存在している個人的無意識のレヴェルから、その社会や時代に共有される集団的なものへ、さらに深く時間や空間を超えて、人類に共通するところまで、集合的、重層に存在し活動し続けている実在なのだ。
 一般化して言えば、理性の対極をなす本能は、より無意識に根ざしており、精神の対極をなすものとしての身体に根ざしている。時代と民族を横断して存在する宗教的な存在(巫子など)はまさに、超越的なコミュニケーションを図る、より本能的・身体的な存在なのだ。
 何故ならば、超越的な何ものかとは、より集合的なレヴェルでの共同体や集団の(意識化される以前の)意志であり得るのだから。そして、集合的な無意識により敏感な存在が、それをいち早く察知し、共同体の成員へと伝える媒介者となるのだから。舞踊の根源はまさに、そこにあるのではないか。
 非難を恐れずに、敢えて言ってみよう。黒田はまさに、この時代の(コンテンポラリーな)巫女なのだ、と。しかしその巫女は何故、観る者にあんなにも痛みを伝えるのだろう。
 ひとつには、黒田本人またはカンパニーのメンバーに内在する、トラウマが作用しているのかも知れない(これはまったくの邪推かも知れない。仮に内在する何ものかがあっても、その内容に一切踏み込むつもりはない)。
 そうではなく、同時代の無意識的な意志であるのかも知れない。その意志とは一体どんなものなのか。何故に、痛みを生み出すのか。舞台上に充満するのは、まぎれもなく<女>なるもの。力ずくで何かが出来るが、どこか不安で、しばしば引き攣り、伝統的な女性の役割を嫌悪して……、そんな女性はしかし、残念なことに美しくも聡明にも見えず……。
 それは、男性原理がいまだ過度に優越した現代の時代精神(明確な区別のもとでの競争的で攻撃的な)を、迷わず我がものとして生きる、(ある種の有能な)女性の姿と重なるのではないか。
 黒田はまさに、今という時代に深く浸透された、そんな女性たちの内なるきしみを、その優れた共感能力で、わが身に体現させたのではないか。そう思えた時、公演以来わが裡にとどまり続けた、かたくなな何ものかが、ふと和らぐのを感じたのだった。

 断っておくがこの思いは、現代のフェミニズム運動を批判するものでは、決してない。女性を旧態依然たる性に基づく役割分担へと押し込めてよしとするものでは、決してない。真の平等を求めて続けられて来た、女性たちの活動の永い歴史に、心から敬意を払うものである。

 時代は今、大きな転換期のただなかにある。その情況のなか、時空を超えた存在としての<おたる鳥>が誕生した。それはまだ、うぶ毛すら生えていない赤裸の状態かもしれないが、時代の風を受けて大きく育って行くだろう。仮に違和感の強い姿となっても、それはまぎれもなく時代のひとつの実相であることは間違いない。眼を離さずにおこう。
<了>

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脚注
(1) 浜松市文化振興財団から提供を受けたデータによる。

(2)雑誌『フィガロジャポン』のオフィシャルサイトによる。
   http://madamefigaro.jp
   2012年4月26日の浦野芳子のコラムによる。
  なお、同氏によるレビューが、7月10日のコラムに掲載されている。
  上記のコラムはそれぞれ、雑誌掲載もある。