2009年8月15日

『じゃじゃ馬ならし』(イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出、シェイクスピア作)

フーリガンたちの非カーニヴァル的求愛
―イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出 シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』劇評

森川泰彦

この戯曲の人物は、一見多種多様だが効率良く配置されており、その原理となっているのは、男女、老若、主従の二項対立的身分秩序である。かかる秩序が一時的転倒を経て再編成されるというカーニヴァル性 が、この喜劇の本質をなしているのだ。まず、家父長的規範に反抗的なキャタリーナの存在によって男女の秩序は初めから乱されており、これを矯正することが物語全体の課題として提示される。次いでこの物語は、老若、すなわち家父長間の世代交代をもその主題としている。ルーセンショーら若い三人の家父長候補が、結婚によって一人前になろうとするわけだが、そのために花嫁候補の父バプティスタは欺かれ、ルーセンショーの父ヴィンセンショーは偽者に取って代わられて愚弄され、グレミオも騙られ求婚競争に敗れるのである。そしてこの闘争において、主従の地位は見かけ上だが逆転する。召使が主人に化け、身分ある求婚者たちが、家庭教師となるべく学者や音楽家になりすますのだ。ヴィンセンショーがその地位を否認され、あわや投獄されそうになるのも、これにあたる。これに、調教の過程での、ペトルーチオの珍奇な服装、教会や結婚式の権威失墜、馬上から泥の中への新婚夫妻の落下といった転覆のイメージが重ねられる。そして調教の成果として、キャタリーナが太陽を月と、昼を夜と、老いた男を若い女と認めるのも、言葉の上ではあるがそうした壊乱の一環に加えることができる。

そしてカーニヴァルは一種のガス抜きであって、元々その革新的性格と共に保守的性格を併せ持っているが、それはこの劇において露骨に表れている。男性すべての応援を得たペトルーチオは、キャタリーナの反乱を鎮圧する。若い家父長たちは計略を尽くして結婚し、その権力を確立する。それに対し、召使による下克上は形の上であるばかりか、古い家父長の反撃さえ被る。旧家父長ヴィンセンショーの怒りが向けられるのは、息子ではなく彼らなのである。かくして革命は防がれ、クーデターのみが成功してこの物語は終わるのだ。観客はこの劇において、こうした秩序の解体と回復の見事な展開ぶりを楽しめる(はずな)のであり、この劇の人気は一般に高い。

しかしこの戯曲には、女性の「調教」という筋立てが、現代のフェミニズム的価値観とは適合しないという大問題がある。これをいかに観客に違和感なくかつ一貫した解釈に基づいて提示できるかが、演出上の最大の課題となるのだ。それでは、イヴォ・ヴァン・ホーヴェ氏はこれにどう取り組んだか。

今回の演出は、マンチュアの教師が省かれる等多少の省略や変更もあるが、台詞の点では概ね原作の内容に忠実であった。大きく変えられたのは、その視覚化であり、登場人物の設定が、現代のフーリガンの世界に置き換えられたことがその最大の特徴である。背広を着てはいるが中身は粗野なゴロツキたちの馬鹿騒ぎが、パロディも取り入れながら、広い舞台に運動感豊かに展開されていくのである。おしとやかなはずのビアンカもあばずれで、二人の家庭教師による教育の場面は、性交そのものとして描かれる。この演出の世界では、言わば男も女も皆「じゃじゃ馬」なのだ。それでは、こうした現代のアウトローたちの風俗への置き換えは、何を意味するのか。

演出ノートに見られるような演出家の主観はさておき、それが客観的に有していたのは、第一に、ペトルーチオとキャタリーナの筋を際立たせるために、それ以外の人物に皆一様の性格を付しつつ脇役化してしまう機能である。この劇を構成するのは、「調教」の成功だけでない。それと並んで、ルーセンショーのビアンカへの求婚の成功が主筋をなすのだが、この演出は、後者をカットしないものの、「図」たる前者の「地」として後景化させてしまうのだ。

そして第二は、そうして唯一の主筋となった調教を、「純愛」として無理なく成立させる環境を設定する機能である。キャタリーナは、母親からの愛情や求婚者を妹が独占することへ嫉妬する女性として、その心理を写実的に描写される。冷蔵庫に引きこもってしまうように、最初から、弱さからくる強がりであることも示唆されている。そして二度にわたってペトルーチオと長く抱き合う場面が設けられ、二人の間の強い恋愛感情が芽生えたことが強調される。こうしたことは、アウトローたちの恋愛とすることで初めて、可能になったというべきだろう。女を愛しているが暴力的でもあるマッチョな男と、不幸になりながらも彼に魅かれる女という設定は、ヤクザ映画によくあるように、ありうる現実の反映として説得力を持っているのだ。この劇の最大の難関であろう妻の従順を説くキャタリーナの長台詞は、宴の列席者に対してではなく、夫への一種の愛情表現として彼に向かって語られる。これを明示するために、ペトルーチオはわざわざ中央客席に移動し、言わば演出家としてその「演技」を見守るのである。彼女の語り口は、投げやりでもないが完全に媚びているというほどでもない。本心ではないが、愛情ゆえにそこは譲るという態度を見せるのだ。

こうした演出は、フェミニズム問題の対処として巧みな成功を収めている。そして同時に、例えば家庭教師の場面で楽器の調律(音楽の準備)を性器の勃起(性交の準備)に見立てたような、意表をつく置き換えによって、聴覚の世界から分離しつつも対応する視覚の世界を、一貫して重ねてみせた。中世の架空の話を、説得的刺激的かつ整合的な形で現代の物語として再生してみせたのであり、見事な置き換えゲームだと言うべきである。

しかしこの演出では、鋳掛け屋スライに対する領主の悪戯を描く序幕の部分が省かれ、「騙し」の主題を大きく後退していることとも相まって、カーニヴァル的転倒の面白さはほとんど一掃されることになった。ルーセンショーの主筋が埋没し、観客が感情移入できる人物が、機知とトリックで成功してみせることによる痛快さは消えてしまったのである。それまで大活躍のトラーニオらが、本物の大旦那様の予期せぬ出現に慌てふためく再転倒の面白さや、言葉を字義通り受け取るというグルーミオの言語戦略がもたらす混乱のような倒錯に富んだ台詞やりとりが生む面白さについても同様である。演出ノートにはカーニヴァルに着目したかの記述があるが、元々抑圧的秩序を欠くアウトローたちの「日常的」乱痴気騒ぎに見えるこの世界に、「非日常的」な秩序の揺らぎと再構築という契機は希薄なのだ。

従ってこの演出に、かかる意味での喜劇としての楽しみは乏しい。独自の世界を創造してみせた傑出した作品ではあるが、この戯曲の潜在的可能性を十全に活かしてはいないこともまた指摘しておく必要がある。つまりは、正統に挑戦しうるような前衛ではない。理念的であれ正統の存在を前提とする、言わば後衛的前衛なのである。
(2009年6月27日観劇)


2009年8月14日

『じゃじゃ馬ならし』(イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出、シェイクスピア作)

冷蔵庫のなかのカタリーナ

奥原佳津夫

戯曲『じゃじゃ馬ならし』には二つの特異な点があって、その上演は他のシェイクスピア劇とは違った形で関心を集める。一つ目は、シェイクスピア劇中異色の劇形式をもっていること。唯一明確な劇中劇形式(しかも序幕のみ)をもち、また、グレーミオの役柄が「パンタローネ」と明記されているように、コメディア・デラルテの影響が最も濃厚な作品でもある。二つ目は、ジェンダー観の問題と、それに伴う、現代の観点では許容しにくいベトルーキオの「馴らし」の暴力性。そして、それらの帰結として、終幕のカタリーナの独白をどう処理するか、という問題である。これらの課題に、上演がどう応えてきたかが、『じゃじゃ馬ならし』の上演史だとも云える。
さて、今回の上演、演出者(イヴォ・ヴァン・ホーヴェ)は意識的にこれらの課題を避け(無効にし)、新たな切り口を探そうとしていたように思える。ただ、結論から云えば、幾つかの興味深い観点は導入されているものの、挑発的な意匠のわりには捻りのない、至って普通の上演に終わってしまっていたようだ。

舞台面は、中央奥にグランドピアノを置いたガラス張りの部屋(バプティスタ家の姉妹の居室)、下手奥に隣家とおぼしき同様ガラス張りの小部屋、そして左右にコンクリートの柱が数本の無機質な空間。
劇中劇の枠組み部分は完全にカットされ、本編のみが現代劇のスタイルで上演される。
まず驚かされるのは、シニョール・バプティスタが姉妹の父ではなく母になっていたこと。ただし、スーツ姿の実業家女性であり、その役割は原戯曲の父親と何らかわらない。現代において、家父長的権力が必ずしも性差には基づかず、恐らくは経済力がそれにかわることが示される。
求婚者の男たちは、体育会系の部活を思わせるチームを形成していてその粗暴な挙措は、過剰に演出されたカタリーナの暴力と相俟って、全編を喧噪のトーンで包み、その中でペトルーキオの暴力性は特に際立たない。
かくして前述の二つの課題は無効化される。

演出者は、無機質な空間で経済関係に縛られながらも、それでも尚、人間が生身の肉体であることを示そうとするように、挑発的、時に露悪的な表現をちりばめるが、例えばビアンカをめぐるプロットでの性描写も、「楽器」と「奏楽」が「性器」と「性的悦楽」の隠喩を持つことは、シェイクスピア当時から周知のことで、全裸を晒して説明するまでもなく、この場合、直接的な表現はむしろ演劇表現としては退行なのではあるまいか?また、カタリーナが失禁して、ペトルーキオがそれを啜ってみせるのも、ショッキングなわりに、作品の構造には特に意味をなさない。

なかで、発展させられる可能性をもつ着想が二つ。
一つは、婚礼の場で、珍妙なかぶり物をした参列者一同に、礼服に白ネクタイの至って常識的な衣裳のペトルーキオが、その身なりを非難される場面。何が正常で、何が異常なのか、という揺さぶりをかけるところから、この戯曲の新たな切り口が見えてきそうなのだが、この場限りの思いつきに終わってしまっているのが惜しまれる。
二つ目は、求婚を拒んだカタリーナが、冷蔵庫に閉じ籠もる印象的なシーン。つづく「馴らし」の場面では、この空の冷蔵庫から冷たい光が舞台を照らす。現代消費社会の経済関係を想起させる家電品であり、また現代でも主に女性の場、家庭的な場であるキッチンを代表する冷蔵庫(しかも空の)とカタリーナの組み合わせは、この上演における彼女の屈折したメンタリティを表象する小道具として秀逸である。

さて、問題の終幕の独白の処理だが―他の登場人物たちは退場し、ペトルーキオは客席中央に座って、舞台に一人残されたカタリーナは、彼だけではなく、客席全員の審査を受けるように、女性の従順を説く長台詞を語りきって、手を差し出す。これに応じて、ペトルーキオは、件の冷蔵庫を小部屋に運びこんで、二人抱き合うところで溶暗―。
劇中随所に、過激な問いかけの姿勢を見せながら、この収まるところに収まった予定調和とも云える結末は、口当たりがいいだけに疑問を感じる。むしろ、カタリーナが客席に差し伸べた手は、回答を与えられないまま終わるべきだったのではなかろうか?
この上演が、数々の奇抜で挑発的な表現を含みながら、本質的には何の違和感も残さなかった所以である。
(於.静岡芸術劇場 2009.6.27所見)


2009年8月13日

『じゃじゃ馬ならし』(イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出、シェイクスピア作)

「カタリーナ」とは誰か

柴田隆子

美術のインスタレーションを思わせる、美しい舞台装置である。白い柱が立ち並び、右奥のガラス張りの部屋にはグランドピアノ、左奥にはソファーがみえる。天井は高く、空間にゆとりのあるスタイリッシュな邸宅のイメージがそこにある。いきなりハイネケンのビールケースが何箱も持ち込まれ、栓を抜いて上演が始まる。物語はシェイクスピアのテクストに沿って、妹ビアンカとその求婚者たちの関係、「じゃじゃ馬」カタリーナの結婚と夫ペトルーキオによる調教、夫たちによる妻の従順さを競う賭けで、生まれ変わったカタリーナが妻の貞淑を説くようになるまでを描く。イヴォ・ヴァン・ホーヴェの舞台は「喜劇」らしく、明るくテンポよく進む。そして物語が進むにつれ、美しかった舞台は汚れ、物が散乱し、ビールの臭いが客席まで漂ってくるようになる。

パドヴァの町は暴力にあふれている。冒頭ビアンカに一目ぼれしたルーセンシオと入れ替わった従者は、恋敵たちからリンチにあう。ビールをがぶ飲みし、卑猥な歌をわめき歌い、乱暴にふるまう男たち。奥の部屋では、ビアンカが男たちを挑発し、カタリーナはかんしゃくを起こしたように暴れまわる。この町では男も女も皆等しく暴力的だ。しかしシェイクスピアのセリフは、カタリーナひとりに「じゃじゃ馬」のスティグマを科す。彼女の「じゃじゃ馬」ぶりは、愛情への渇望、スティグマを再現することで人の関心をひこうとする虐待児童のそれのようにもみえる。妹ビアンカの美徳とは、単なるセックスアピール、あるいは男たちの目から見た「都合のいい女」である。男たちの口にするビアンカの貞淑さを称えるセリフは、コケティッシュなアイロニーをおびる。町の外から来たペトルーキオはこの町の放縦さには染まっていないが、グローバル経済の法則はきちんと身につけている。要は「金」だ。そのためならどんな女でもいい。どんな女でも調教してしまえばいい。人間は役割であり、役割をこなさせるのだ。

ホーヴェは、人間の関係には暴力とセックスと金しか介在しないことを、シェイクスピアのテクストをつかって浮彫りにする。舞台が単なる女性蔑視の物語と受け取られることを回避するために、パブティスタ家の家長は母親に置き換えられ、男たちと対等にふるまう「女」として登場する。金をもつ母親は権力の側にいる。女性ならば必ず被抑圧者の側に留まるとは限らない。「金」さえあれば性差のヒエラルキーも乗り越えられる。娘たちはこの母を見習うべきなのだろうか。

ペトルーキオとカタリーナの関係には「いじめっ子といじめられっ子のあいだの愛」、「主人と奴隷のあいだの愛」があるとホーヴェはいう。それは倒錯した「所有の愛」、人文主義的な対等の関係を是としない世界での「愛」の形態である。普通、人はそれをSMと呼ぶ。食事を与えず、眠らせずに身体的に弱らせ、親しいものたちから離して自尊心を奪い精神的に支配していくのは、DVに留まらずナチやシュタージあるいはカルト集団などでもお馴染みの手口で、社会的にはどんな「愛」や「正義」の元にも正当化できないことを我々は知っている。しかしこうした「調教」が日常的にあることもまた知っている。これは男女に限った話ではない。派遣労働者、外国人研修生の問題等、そこここにある。

カタリーナを国に例えてもいいかもしれない。周りの兄弟と小競り合いをしていた国が経済力を持つ先進国に組み伏せられ、テロリストの国と名づけられ、爆撃の音で眠れず、餓えさせられる。自国で食料を生産していたのに、もはや先進国に「お願い」しなければ食べていくことすらできず、その上、お礼の言い方が悪いとそのわずかな食料さえ取り上げられる。生存のためには、自我はたいしたことではない、相手にうまく合わせて生き延びられればいい。確かにこれは奴隷の喜びかもしれない。今日も生きていられてよかった、と。

トネールフループ・アムステルダムは『じゃじゃ馬ならし』で、こうした非情なグローバル社会の姿を見せつけたかったのだろうか。どうもそれだけとは思えない。それは、カタリーナを演じるハリナ・レインの身振りにある。ペトルーキオの命令で夫への服従の勧めを、ひとり客席に向かって語りかける時、レインは決してその口からでる言葉と同化していない。彼女は登場人物の感情を再現することなく身振りとしてこれを演じており、ここで語られていることを信じるかどうか、そしてそれをどう考えるかは、我々観客に委ねられているのである。舞台は答えを出さない。たとえ個人の自由を尊重する社会が舞台の最後のようにごみためのようなものであっても、その寛容さをよしとするのか、それともペトルーキオのような「強者」に弱いものや社会からはみ出すものの抑圧を許し、個人を鋳型にはめこみながら「調和」のとれた社会をめざすのがよいのかは観客が考えるべきことなのである。

(6月27日観劇)