2009年8月10日

『ふたりの女』(宮城聰演出、唐十郎作)

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ふたりの女~葵上、または羽衣としての

柳生正名

七月四日、野外劇場「有度」で行われた宮城聰演出・SPAC「ふたりの女」楽日は、この時期としては望外の星空に恵まれた。梅雨の中休みが翌日も続いたおかげで、一歩足を伸ばし、三保松原を訪れる機会さえ得た。

羽衣伝説で知られる、この浜に足が向いた理由―思うに、それは能「葵上」を下敷きに唐十郎が書き上げたこの芝居の幕開きが、伊豆の砂浜の場だったせいだ。現代の光源氏たる精神科医、光一はパット・ブーンの「砂に書いたラブレター」を口ずさみつつ、舞台の床にアオイあての恋文を書く。やがて波に舐め取られるだろう砂上の文字は、この物語を突き動かす根底的な動因としての光一の愛―ふたりの女(アオイと六条)に向けられた、その情動の空虚な本質を暗示する。

舞台一面に砂を敷き詰めたという初演(一九七九年・劇団第七病棟)に対し、宮城聰は今回、梁や桁が交差する屋根裏さながらの床面を舞台に設けた。それを取り囲む形で、周囲にうず高く積み上げられた角材の山。かつて全共闘が築いたバリケードの内の解放区を思わせる、その板の上で、演者たちは能役者と同様、足袋を履き、格子状に組まれた角材の上を、蜘蛛のごとく伝い歩いた。

物語の場面は、砂浜から精神病棟、自動車レース場、卓袱台の据えられたアパートの一室、と目まぐるしく転換する。これに伴い、矩形の格子上では、時に六条ら病棟の患者が絡み合い、時には車がクラッシュするものの、そこが圧倒的に「狂気」によって支配される場であることは演出上、一貫している。従って、光一の子を宿し、彼の愛を疑わぬまま、「正気」を保つ間のアオイの居場所は、常にバリケードの上である。決して屋根裏のような格子上に降り立ちはしない。

興味深いことに、今回の舞台で、彼女が当初立つ「正気」側の世界の様相は、砂浜に打ち上げられた難破船か、大震災の廃墟のごとき殺伐さを示す。対照的に、同じ角材で組み上げられながら、「狂気」側は、デジタル的で整然とした格子の上に成り立っているのだ。

見方によっては、狂気というものは、独自の論理的秩序に貫かれている。例えば、特定の精神病に特徴的な「聖母マリアは処女である。私も処女である。よって私は聖母マリアである」という論法は、「ひとたび光一の妻と呼ばれた自分は生涯、その妻たらざるをえない」という思いに従い、愛を捧げる六条の揺るぎない姿に、どこかつながる。

加えて、デジタル的な整然さを示す格子上で、アナログの肉体を持つ役者が演じるとき―充分な訓練を積んだ演者であっても―偶然に支配された揺らぎが、いやおうなく生じる。それを免れようとする役者たちの集中力が、今回の上演に魔術的な緊迫感も与えただろう。

このユニークな舞台構造は、ドラマが終局に近づくにつれ、さらに豊かな多義性を発揮する。例えば、入院患者の一人(全共闘の敗北への肉体的オトシマエを自らつけることに固執する男)を訪ねた弟が「鉄格子の向こう側」と叫ぶ、その瞬間。役者たちが立つ格子状の床は、正常と狂気を隔てる境界としての鉄格子そのものであることが突如顕わになる。

六条の生霊に取り付かれ、と言うよりは、光一の愛が砂上の文字に過ぎないことを悟り、自らの内に潜む六条を徐々に呼び起こしていくアオイ。その立ち位置も、正常界たるバリケード上から、狂気と正気が交錯する格子の上に、次第に引き寄せられていく。クライマックスとなる死の場面、白いドレスを流産の血に染め、バリケードの頂、舞台後景の樹々の緑が照明に映える中から、アオイは日傘を手に下界へと、はかなくも美しく落下する。

それは、今思い返せば、浜にひときわ秀でた松の古木めがけ、天女が降臨する姿そのものだった。ならば、終幕、光一の手に縊られる六条が見せた身悶えも、羽衣を取り戻し、天上に戻らんとする天女の羽ばたきに重なる所作、だったかも知れない。

こうした幻視を、筆者の内に引き起こしたもの。それは、能役者を思わせる演者たちの「特権的肉体」(わけても、片や六条/アオイの二役を高い集中力で演じきり、片や光一の虚ろな中にも清々しい存在感を造型した、主役二人の熱演)、彼らに格子上での歩みを強いることで、幽玄なエアー空 気を舞台に招来した「演出」、現代の謡曲とも言うべき詩的陰影をたたえる脚本の「アングラ的文体」―この三者が共鳴し合った結果であったろう。加えて、この三保に程近い山麓の野外劇場に立ち上る霊性めいた何ものかも、「葵上」「羽衣」の二曲が筆者の内でひとつに結び付く依り代となった気がしてならない。

蛇足ではあるが、翌日訪れた三保の浜には波による砂の侵食を防ぐためだろう、所々テトラポットが、あたかもバリケードのように積み上げられていた。その表には、誰の手になるものか、落書きが様々刻まれている。そのひとつはこうであった。―葵参上

これがフィクションであれば、自らの詩的想像力を誇りもしようが、実のところ、何の虚飾もないリアル現 実の話である。(了)