劇評講座

2015年6月2日

■入選■【マハーバーラタ~ナラ王の冒険~】人から世界へ、世界から人へ 中谷森さん

 森を彷徨うダマヤンティ姫が、夫・ナラ王の居場所を大樹に問いかけると、ひとふきの風が吹いてざわざわと木の葉が共鳴し、さながら野外劇場の周囲の森もまたこの祝祭に参加しているようだった。そのようにして古代より人は、物言わぬ樹に感情を与え、目に見えぬ神に形を与え、また恐ろしい獣に意志を与え、壮大な宇宙を想像してきたのだろう。
 紙垂の巡らされた舞台が、U字形の回廊のように客席を半ば取り囲む。舞台下には様々な打楽器と演奏者たち。まだ明るい森の中で、白い装束と仮面を身につけた神々が高下駄を静かに引きずって入場すると、劇場は一瞬の内に森厳な空気に飲み込まれた。ナラ王とダマヤンティ姫が現れ結婚式が始まると、スピーディーでスペクタクル性の高い場面が、客席を笑わせながら次々と上演される。塩祓の儀式からはじまって、外連味溢れる舞台を展開する石見神楽を彷彿とさせるような、大衆的で大胆な舞台だ。一方、舞台に巡らされた紙垂と、紙で作られた衣裳や張り子の白色が、舞台の神聖さを絶えず意識させてもいる。賭けに負けたナラ王とダマヤンティ姫は離ればなれになって森を彷徨い、人や神や動物そして草木に運命を左右されながら、めくるめく物語を展開する。二人が再会し、二度目の結婚式を執り行うところで舞台は終幕を迎えた。『マハーバーラタ』といえば、ピーター・ブルックによる舞台が有名であるが、今回のふじのくに⇄せかい演劇祭では、このブルックによる映像版の『マハーバーラタ』の上映も行われた。聖仙ヴィヤーサが物語を語り、それをガネーシャ神が書き留めるという叙事詩『マハーバーラタ』の本来の形式に乗っ取ったブルックの演出と比較すれば、結婚式から結婚式までのダマヤンティ姫とナラ王の物語だけを抜き出した宮城版『マハーバーラタ』の祝祭性は歴然である。
 ムーヴァーと呼ばれる、文楽で言えば人形にあたる演者たちの鍛えられた身体が、仮面をつけた神々に威厳ある動きを与え、張り子の虎やちょうちん蛇胴の蛇を生き生きと動かし、木々のそよぎを表現する。そこに語り役のスピーカーたちが声を吹き込む。登場する人間も、ムーヴァーとスピーカーの両者からなり、舞台ではすべての登場人物が——神も動物も草木も——複数人の演者の協力によって成り立つ。そして、それらの存在たちに、最後に生命を吹き込むのが観客の想像力といえるだろう。時折、ダマヤンティ姫とナラ王は、ムーヴァーが発話することで直接的に演じられることがあり、その時には一人の人間の強度が立ち現れる。また一方で、ダマヤンティ姫と共に旅したキャラバンの一行が象に一人残らず踏み潰されてしまう場面では、一人のムーヴァーが両手にそれぞれパペットをはめ、額に貼った紙でラクダを表し、一人の人間が複数の人と動物の死を演じることで、滑稽ながらも世界における命の無常さが表現されていた。そうしたいわばズームインとズームアウトを繰り返し、舞台の演者と観客が一体となることで、数多の存在から成る宇宙の広大さと、そこに生きる個人の強度が露になる。
 ダマヤンティ姫との結婚に嫉妬した悪魔カリに取り憑かれたために、ナラ王は賭博に負けて国を失うが、インド哲学における四つの時代の一番最後に、カリ・ユガという時代がある。それは人が神々を忘れてしまった時代であり、暗黒時代とも呼ばれる悪魔カリが支配する時代といわれる。神の意志か偶然か、いずれにせよ人が操ることのできないサイコロに、自らの利益だけを求める自己中心主義こそ、カリに取り憑かれたナラ王の利己的欲望だったのではないだろうか。人にして賭博の名手であるリッパルナ王は、その奥義をナラ王に伝授するとき、一本の木のすべての葉を数えるには、枝ではなく「木全体を見よ」と言う。運命のサイコロに勝つにはまず全体を見なくてはならない。サイコロ賭博は叙事詩『マハーバーラタ』全体を貫くテーマであるが、それこそ人が運命を生き抜くための奥義とも言えるのではないだろうか。その賭博の術が授けられた途端、カリはもはやナラ王に取り憑いていられなくなる。
 個人の強さとは、浩々たる世界における存在の弱さと隣り合わせだ。それを知る時、神々や百千の生き物から成る世界を人は見つけるだろう。かたや人は、自分の眼を通してしか世界を見ることができない。ひとたび舞台が終焉すると世界はたちまち消えてしまい、華やかに見えた神々の衣裳や動物たちの作り物も——現にそれらが紙で出来ていたように——すべてはただ紙切れのごとき儚いものとなる。逞しく生きる人を包みながら、世界が豊潤として見えるのは、人がその想像力を働かせて他者と関わっていこうとする瞬間、まさにこうした演劇的瞬間に他ならない。全体と個人の対比という演劇的パースペクティブを持つ物語を、多角的な演出を用いて演ずることによって、結婚式という大団円はその玄奥に辿りつく。冒頭の結婚式では王と王妃を中心にして、神々は左手、コロスは右手と分かれていた参列者たちが、終幕では入り交じって祝き狂おす。世界と人間の、対立から調和へ。ナラ王の物語を超えて、神人ともども祝う結婚式こそ、宇宙を生きる人へのこの上ない祝福となるだろう。