世上、ハムレットは悩める青年の代名詞のように扱われてきた。今回の宮城ハムレットのポスターにしたって、「悩め、悩め、悩め」がキャッチコピーとなり、主演の武石の泥顔を飾っている。そういえば、徐々に顔を泥に固められていくハムレットは、狂気を装い自らを閉ざしていく精神の過程を現すのか。
台詞と動作を二人に分け、人間の意識と行動の危うさを醸し出すことを得意とする宮城だ。ハムレットの悩みをどう捉えるのか。さらに演劇「ハムレット」のメタシアターとしての要素を思えば、劇中劇が進行する中、演技する武石と演技するハムレット、観劇して面白がる我ら観客とを宮城がどう輻輳させ困惑させてくれるかと、誰もがわくわくして劇場に足を運んだに違いない。
さて幕は開けた、いや舞台に灯りが照らされた。白く広い布の四隅をわずかに吊り上げられた舞台に蹲り、ビー玉を転がすハムレット。まさに自らの中にこもる懊悩する青年だ。前に転がしたビー玉は、行く手を布の斜面に阻まれ、再び自分の元へ転がり来る。何度も何度も。自ら発した侮蔑の言葉や疑問は、常にそれを発した自分のもとへ返るのだ。ハムレットよ、お前の胸を占める憂愁は一体何だ。
父王の死の真相を知らなかった時点では、王座を占めた叔父・現王への、そして十分な喪にも服さず操を穢し現王の妃となった母親への嫌悪の情がある。勿論、嫌悪感は即悩みとはなり得ない。嫌悪感に相克する感情や思いがあるからこそ、そこに悩みが生ずる。母親に対しては消そうとしても消せない愛がある。現王に対してはそれなりの敬意を装う自分がいる。潔癖にして誇り高きデンマーク王子のことだ、嫌悪すべき矛先が、淫蕩の妃から生まれ、下品な王にへつらわなければならない自分に向くのは当然のことだ。
しかし、本当にハムレットは悩み続けるのだろうか。実は小生には、ハムレットは父王の亡霊により真実を知るや、叔父に対する感情を嫌悪から憎悪にと昇格させ、一点の曇りもない復讐への思いを煮え滾らせるようになったとしか思えないのだ。まさに悩みはふっきれたのである。その後の舞台上のハムレットの元気振りはどうだ。狂気を装い言語は意味不明ながらも快活にして明瞭。母親にも恋人にも、現王、友人に対する言葉も態度もすべて復讐のために計算され、苦しさはあっても迷いや悩みはない・・ように思える。
勿論、オフィーリアに対しては復讐劇の汚濁と愛憎にまみれぬよう冷たく突き放し、母親に対してはその胸を真っ二つに裂くような冷酷な言葉を浴びせかけなければならない。それこそが苦悩であると言えなくはない。
ただそれらは、復讐の大義のもとでは抹殺せざるを得ない小事であり、ハムレットにしてみれば悲しむべきことであっても悩むべきことではない・・・と少なくとも覚悟しているはずだ。
さて、劇は(期待に反して?)、重厚かつ荘重に、つまりは正調に進む。勿論そこかしこに登場人物の存在感を浮かび上がらせるため、観客をうならせ、驚かせ、笑わせるような演出を織り込ませながら。
エネルギッシュなハムレットに対比するかのように透明で消え入りそうなオフィーリア。
苦悩し懺悔しながらのた打ち回る新国王。おお悩む人とはあんたのことだったか。
圧巻は劇中劇だろう。旅芸人たちの華やかな登場。繰り広げられる芝居は、観劇する王と妃の心に共振するかのように場面がクローズアップされ、黙劇の力を見せつける。対照的に、芝居の前に座る王と妃はなにか紙芝居を見つめる無防備な子供たちのようだ。
ミレイの絵画のごときオフィーリアの亡骸に寄り添い泣き叫ぶハムレット。オフィーリアを死の世界に追いやった自らの言動を悔いるというよりも・・・胸に秘めた復讐への決意を一層固くさせているに違いない。
そして王子の帰還は、国王の不安を醸し出すかのように音もなく不気味だ。
登場人物が死ぬ度に、ハムレットがブリキ状の抜け殻のような柱を倒していくのは、それぞれの死は自分の行動によって引き起こされたことを確認しているからなのか。
さて、こうした演劇の深みと登場人物の奥行を比較的静かに楽しんできた観客は、最後にどんでん返しを食らわされる。
惨劇の結果、王族が失われたデンマーク国はノルウェー王に移譲されることになる。すると突然劇場内にはラジオのジャズが流れだし、舞台上にハーシーの段ボール箱やチョコレートが降り注ぐ。ノルウェー王が連合国軍最高司令官に代わったことが示唆され、物語の記録役で伝達係でもあるホレーショが、国民は新たなる支配者に従順に従うであろうことを告げ終演となる。
宮城はデンマーク国の架空の悲劇あるいは惨劇を、焼け野原となる日本の現実の悲劇に模したのか。いや逆か。いずれにしても、どかんと投下されたチョコレートに、米軍の圧倒的な物量を思い知らされる我々は、瞬時のうちに70年前の焼け野原に立たされるわけだ。
さあ、一体どんなメッセージが込められているのか。復讐あるいは戦争の無意味さか、リーダー達の矛盾的行動か、国民のしたたかさか、はたまたチョコの誘惑なのか。観劇前の期待通り我々は、悩むのはハムレットでなく自分自身だったと困惑させられるのだ。