駆け回る獣をしとめたり泳ぎ回る魚を陸に引き上げたり木になっている実をもいだりして、食べていた頃、地球の表面をおそるおそる水平に撫でさすっていた頃も人類にはあった。農耕では地面へ垂直に刃を突き立て土がほぐれたところへ種を蒔く。地球との関係は一層、深くはげしい方へ進んでいる。
舞台前方、上下に鐘と太鼓が用意され、赤い蝋燭で灯も捧げられている。中央には蝋燭と、客席へ張り出して稲穂が設えられている。楽器を打つ音が空間に満ち、揺らぐ炎の様にじんわり明滅しながら客席の明かりが落ちていく。真昼の街からやってきた私たちは、細やかな手作業で日暮れに包まれる。
月や星はものすごい速さで宇宙を回っているのに私たちは何よりもゆっくり動くものの様に遠くからそれを眺めている。無垢舞蹈劇場の演者たちがゆっくりと袖から滑り込んで来た時、天体が動くあの滑らかさを思った。肌理の細かさは見かけに反してきわめて高速な運動によるのではないか。
筋力・平衡感覚・重心の置き方がさぞかし鍛錬されているのであろうと思いながら、それだけでは月や星が回るほどの速度でこなす仕事量には計算が合わないと感じた。巨大な体を持っているかの様に深く息を使い、体中の毛穴から出し入れして肌全体で呼吸している、そういう生き物に見える。
演者たちが白塗りの両腕から枯葉色の稲穂が生えているかの様に手にしてのっそりと歩いてくる。雑多な欲望に振り回されながら日常を生きる体の有り様から離れ、豊穣への感謝に存在を捧げきる。私欲を精神的な垢だとするならば、これこそ無垢の名にふさわしい姿である。
高度に垢抜けた体が及ぼす求心力は、汚れなき魂そのものがヒトの形をしてそこに存在しているかと思わせるほどである。心洗われる観客は浄化の時を過ごす。自らの魂から日常の垢を落とし、雑事を忘却して無心に生と実りに感謝することを許された時間。家や会社では作れない魂の自由時間。
真黒い紙状のカツラを被った女性が現れ、舞台の奥からこちらへ身をこごめて歩いてくる。広い幅で束状になった髪が、CG黎明期にポリゴンで描かれたヒトのそれを思わせる。バーチャルリアリティの髪を豊かに戴いて、種子の様なものを拾いながら濃密なスローモーションでこちらへ近づいてくる。
静けさに満ちた時間から、舞台は徐々に目にも明らかな熱を帯びていく。上下から一対の男女がじっくり近づく。ついに触れそうになると、産毛が逆立ちそうなほどスレスレの距離で全身を交錯させ、やがて触れる。余命いくばくもない昆虫の羽の様に、長い爪の付いた手をカチカチ何度も震わせた。
小麦色の肌をした男たちが長い円筒を脇に携えて鳴らし、白塗りの全身を露にした女を囲んで追いつめていく。攻められるにつれて女の動きは激しくなっていき、果てた様に体を落とす。叫び声を伴って男たちが大立ち回りで闘う場面が続き、目にも耳にも強い刺激がもたらされる。
巫女が現れて何事かを体の奥から叫ぶ。今まで繰り広げられた欲望の発露をも慈しむべき営みとして名付けきるほどの気迫である。お経が朗々と空間を満たすと、すっかり全身が霊験あらたかな心持ちに包まれている。私たちはこの客席に坐っている限り安心して自らの無垢な魂を認めることが出来る。
柔らかく鐘が打ち鳴らされ、黒い幕が降りる。カーテンコールが終わっても奏者はその手を休めず、最後の観客が劇場を出るまで、ボーン、ボーンと穏やかに時を刻み続けている。2時間かけて提供したこの体験がお客様の心に残る様に、お見送りに手を抜かない一流に洗練されたサービスの様に。
極上の贅沢なエステを堪能する様な気持ちいいことずくめの2時間でこざっぱりした魂を取り戻させてくれたこの完全無欠さに私は戦慄を覚えた。クレームを呼ぶ様な不快なことや怖いことや傷つくことや痛みが何一つとしてなく、効率的にカタルシスへ誘導してくれるエレガントな演し物だった。
農耕を始めた頃だって、たしかにヒトは今より少しでも良い暮らしをしようとなりふり構わず頑張った筈である。地球から食べ物を奢ってもらうだけではなく、結婚して協働する堅気があった訳である。食べ物を産み育てるに当たり、定住し、富を蓄え、勘定し、守る方法を懸命に、効率化した筈である。
野蛮にも大地へ刃を突き立てるとき同時に自分たちを襲った痛みを、我慢した筈だった。やむにやまれず始めた儀式の訳も意味も少しずつ忘れられて形だけが無垢な魂の様に遺される。自分たちの似姿が舞台上でそっくり凡て肯定される様を座席からゆったり眺めて観客は魂に垢抜けた自信を取り戻す。
カーテンコールが終わったら獣のにおいがぷんぷんする生存競争の中へ帰らなければならないのだから、ぜひそうやって元気になって勝つべきだ。儀式の訳も意味も忘れ切って初めて純粋に芸術としての真価が示されるという言い方も出来る。
もし本当にそうならばその芸術は地球ときっぱり別れてあげたほうがいいんじゃないかと本当は思う。