夢幻の彼方に喘ぐ、無限の彼方に呻く ―クロード・レジ演出『夢と錯乱』における〈夜〉の生
闇と沈黙。体内への感覚が鋭敏になり、無意識に唾を呑みこんでいること、その音がこんなにも大きいことに戦慄する。かくも長き闇と沈黙。舞台は暁の空のようにゆっくり明るみ、舞台上の影から幽かな声が漏れる。気が付かないほど緩やかに青く赤く染まる舞台を見つめながら闇に溶け入り、観客は意識と無意識の間を漂う。クロード・レジ演出『室内』はこうして上演された。最後の暗転は、死の疑似体験のようでもあった。
翻って今回の作品『夢と錯乱』は、同じく闇に包まれてはいるが、音が空間に満ちていた。舞台は瞼の裏側のような闇から始まる。弦をはじく音。闇に響き渡る機械の低い駆動音と耳鳴りのような高音は、詩人が世界と自分に覚える違和感だろうか。その闇の中心に、なにかが仄明るくうごめく。観客の意識は極度にそこに集中し、照明が緩慢に明るくなっていく中、ある瞬間に、「なにか」が人間だとわかる。その演者を包む舞台美術の半楕円のアーチは一点透視図を形作り、楕円堂の密な空間の中に、舞台奥の闇の消失点の底知れなさと、その闇が客席に向かってわずかに開いたアーチを通じどこまでも彼方へ広がっていくかのような感覚を生み出している。詩人の内奥の無意識の彼方と外の夜空の彼方が、共に示唆される空間。星のようにかすかな照明の光は闇の果てしなさを強調し、観客を視覚より聴覚に集中させる。薄明の中、ヤン・ブードーの身体の輪郭が、灰色の光に霞んで次第に浮かび上がる。彼の動きは終始緩慢だが、内側の何かがあふれ出してしまわないように必死に抑えつけているかのように、身体が極度に緊張していた。そして目を閉じ、感覚に身を任せている。
時間をかけて舞台奥から舞台面に到達し、とうとうブードーは発語する。「夕暮れ、父は老人となった」。喉にからみつくようなフランス語の摩擦音とそこにリズムを加える破裂音、身体全体からゆっくりと絞り出される、呻くような低い声質が相まって、声が観客の鼓膜に粘りつき、皮膚全体を浸していくかのようにすら感じられた。聴くとはこれほどまでに触覚的で官能的な体験なのだ。彼は“sauvage”という単語では大音声をあげて詩人の内で燃え盛る野性の炎の火の粉を飛び散らせ、間欠泉のように時折声にならない呻きと喘ぎを漏らして表裏一体の苦痛と快楽に悶える。「甘美な責苦が彼の肉を焦がした」という詩句の通りに。ブードーの表情も身体も、滑稽なまでに快楽の悦びにゆるみ、苦痛に耐えてゆがむ。彼は身悶えし、瞼の裏に幻視する、トラークルの狂気に満ちた青く赤い詩の情景へと手をのばす。呪われた家族と野蛮な衝動に彩られた世界へ。近親相姦への罪悪感を暗示するかのようにオルガンの音が響く。「誰も彼を愛さなかった」。「炎となって燃える霊、妹が」。これらの詩句で自分を、妹を抱き、俳優の身体をゆっくりと這いずる掌の官能。楕円堂の闇でうごめくトラークルの詩は、レジが演出ノートに記したハゲワシのように観客の目玉と脳を啄み、粘りつく声の肌触りと、見えない闇の彼方へと観客の感覚を誘う。「夜は呪われた種族を飲み込んだ」という最後の詩句で、薄れゆく赤い光から全てが完全な闇に呑まれるが、その直後、闇に横から光が差す。詩人はそこに立っている。彼はまだ夜の中に生きている。瞬きのように再び闇が訪れ、舞台は終わった。
西谷修が『夜の鼓動にふれる』で述べたように、いま世界を席巻する西洋文明は視覚の用語に規定された認識を持つ〈光〉の文明である。視覚的認識には必ず距離があり、対象を客観的に分析する。我々が今生きるのは、全てが秩序立ち、安定した見通しのきくこの〈昼〉の世界だ。西谷は、20世紀の世界戦争を、〈光〉の文明が反転して生まれた〈夜〉であると論じた。この〈夜〉では殺人の禁止を含む全ての秩序が闇の中に溶け、無差別化される。目が利かないそこでは触覚に頼るしかない。レジ演出『夢と錯乱』の闇は、〈光〉の文明が覆い隠したこの〈夜〉を思わせる。それは第一次世界大戦という世界の〈夜〉、そして詩人の無意識の〈夜〉だ。人類という「呪われた種族」のこの二つの彼方にある、理性と野性の葛藤。自分の輪郭が溶け合ってしまうまでに近く、かすかな気配しか感じられないほどに彼方の、夜に包まれる錯乱の経験。それは視覚で認識するための距離感ではありえない、そして無事ではいられない体験だ。レジの作品が表現するのは、〈昼〉の中で生きる我々が普段ふれることのない、「夜の鼓動」だ。そして、西谷が言うように、〈昼〉と〈夜〉は対立する二つの世界ではなく、世界との二様の関係である。〈夜〉は我々のすぐそばにある。無意識の瞬きが常にもたらす一瞬の闇のように。
かつて『室内』上演後のトークで私は「なぜ生きている人間を使って死を表現するのか」とレジに問い、彼は「生と死はあなたが考えているように断絶しているのではなく、繋がっている」と答えた。死が色濃い『室内』の闇の幽かな脈動と、生/性の粘つく感触の『夢と錯乱』の闇の鼓動は、相補うものなのだろう。レジは『室内』と『夢と錯乱』とで、生の周りに漂う死の気配と、死に堕ち込んでいく生の躍動とを演劇化したのだ。死と生のあいだを、あいだの藝術である演劇で。クロード・レジ演出『夢と錯乱』が上演された楕円堂の闇で私がふれたのは、呪われた夜を彷徨う詩人の、内なる夢幻の彼方からの喘ぎ、夜空の無限の彼方への呻きだった。死を目前にして、レジはこの生の賛歌を作り上げている。そう、生と死は繋がっているのだ。