劇評講座

2012年1月20日

『ガラスの動物園』(ダニエル・ジャンヌトー演出、テネシー・ウィリアムズ作)

カテゴリー: ガラスの動物園

■準入選■

ジャンヌトーさんの「ガラスの動物園」

渡邊 敏

「欲望という名の電車」という映画を見たのは、高校生の時のこと。偶然テレビで見た白黒映画は、繊細さと暴力的なものがいっしょになった映画で、主人公のブランチが哀れでならなかった。そのとき、テネシー・ウィリアムズという人の名前は、荒々しさと、猥雑さ、美しさといっしょに私の中に記憶された。

二週間ほど前、長い間忘れていた彼の世界に久しぶりにひたった。「ガラスの動物園」のリーディング・カフェ。そうそう、この感じ、と体が思い出していた。台詞を声に出して読んだだけなのに、頭の中がぐるぐるし出し、終わった時には作品を「見た」ような満足感があった。不思議。それから、舞台も見に行ってしまった。10月29日、土曜日。

薄暗かった舞台に灯りがつくと、白い四角があった。紗、のようなうすもので囲われた空間。床も綿布のようなものが厚く敷き詰められ、裸足で歩いたら気持ち良さそうだ。
ああ、これは「テネシー・ウィリアムズの」ガラスの動物園じゃないんだ、と思う。
ミニマルで美しい舞台装置にはアメリカ南部の匂いはないし、ローラは色味のないメーク、衣装で、透明に近い雰囲気で、ひっそりとしゃべり、息をし、歩く。弟のトムは「多感な青年」ではなく、人生を知り尽くしたような中年男が語り手のトムと若かりし日のトムの両方を演じている。

母親の解釈も、ずいぶん違っていた。ちょっと時代遅れで、見栄っ張りだけれど、娘を愛している、ごく普通の母親を想像していたのだけれど、ジャンヌトーさん演出のアマンダは病的で支配的、神経衰弱ぎりぎりのようだった。ローラを問い詰めたり、トムにコーヒーの飲み方までとやかく言ったりするところでは、この家の不幸の根源はこの母親なんじゃないかと思える。「お客様」をお迎えする日の、踊り子みたいな黄色の衣装は、痛ましくて笑えない。「ガラスの動物」って、この家族3人全員のことだったのだろうか。じゃあ、あの真綿の床はクッション材?

こんな時代だから、ローラがタイプ学校をやめたことがバレて母親になじられるシーンは、重くて、身につまされた。人並みの生活を送れない娘に「この先どうするの」と問い詰めるのを聞いていると、ひきこもり、ニート、という言葉が浮かぶ。ローラが学校に行くふりをして、一日中歩き回り、植物園や映画館で時間潰しをしていた、と打ち明けるところでは、リストラされたことを家族に打ち明けられずにいるサラリーマンを連想した。今の日本だからこそ、そういうテーマの作品、と思う人もいるかもしれない。

このお芝居の圧巻は、暗闇の中、蝋燭のあかりで、ローラがジムとダンスし、キスし、一瞬のロマンスを味わった後、夢破れるシーン。リーディング・カフェで読んだときから、どんな風に演じられるのか期待していた。私が思っていたより、ずっと抑えた演技で、ローラの顔は、静かで、でも、内にぽっかり穴があいたようだった。

こうして戯曲や舞台にふれてみて、想像力というものの楽しさ、すごさを感じた。ジャンヌトーさんの舞台は、私の想像とはちがう世界を見せてくれて、あの白い空間は、トムの回想の空間であり、ローラが安らいでいた純白の繭のようでもあり、世間から隔絶した家族の空間でもあり・・・。その中に、トムだけは靴をはいて入り込んでいて、あれ、と思う。ベールのような幕は、「お客様」が現れてドラマが起こる兆しに、はたはたとはためき始め、ドラマが起きると、もう乱れたままだった。

終演後、ジャンヌトーさんは「芸術は安心させるものではなく、人の心を揺るがすもの」と語っていた。始めから終わりまでひりひりする舞台。でも、痛さも心地いい。
ローラはあの後どうなったんだろう、と想像しながら、帰りのバスに揺られた。遠くの町の灯りが、舞台に置かれていたガラスの動物みたいに輝いていた。普通の人々がねがう「人並み」の幸せが訪れなかったとしても、まだいくつもの美しいドラマが彼女には訪れたにちがいない、と思った。

観劇日 2011年10月29日