構造的読解と革新的手法を求めて
―宮城聰演出『ハムレット』劇評
森川泰彦
暗めの冷たい光を基調に巧みに変化する照明の下、端をやや吊り上げたりする四角い白布が主舞台をなす。周囲には金属板を円錐形に一巻きしたようなオブジェが配置され、それが役者の物語空間からの(さらにはこの世からの)出口を示している。そうした簡素で硬質な空間に、陰影が質感を際立たせる衣装を纏った役者たちが登場し、鍛え上げられた朗誦法で明確に台詞を回してみせる。そして、ク・ナウカからのファンにはおなじみのリズミカルでエキゾチックな伴奏が加わる。奏者は役者でもあり、その存在は聴覚にとどまらず視覚にも訴えかける。冒頭、音楽で台詞がかき消されるところがあったが、総じて他の舞台要素と衝突することなく、その効果を高める役割を堅実に果たしてゆく。演技は、惰性的な身体の使い方を極力排したバロック的と言うべきスタイルで、斬新な所作が観る者を飽きさせない。そして同時にその身体レヴェルの過剰さは、技巧的な修辞の連鎖からなるシェイクスピアの台詞の過剰さに対抗し得るものとなっている。
美しく心地よい舞台である。大した戦略もなく上演される凡庸なシェイクスピアが氾濫する現代日本演劇においては、これらだけでも十分評価に値する。残念ながら最後方の席であったため臨場感に乏しく、この演出家の舞台独特の硬質な生々しさは感じとれなかったが、それでも十分楽しめた。
しかしながら、この古典中の古典を綿密に読解したか、それに基づいて上演を有機的に組織し、舞台上の様々な形象・記号を整合的・効果的に配置したかについては、強い疑問が残る。紙幅が限られているため、主な問題点のみ簡潔に取り上げよう。
第一に注目されたのは、ホレイショーらによる亡霊の目撃場面が省かれると共に、影が映されただけで亡霊役は登場せず、ハムレット役者によってその台詞が語られたことである(二度目の出現も同様)。これは精神分析的読解に基づき、亡霊がハムレットの幻想に過ぎないとの趣向を示すものであるかに思われた。息子は、母親を欲望できるのは父親のみであるという規範を受け入れて母親への欲望を断念し、父親に同一化する。そうして社会秩序に組み込まれるわけだが、他人が母親を手に入れたのを目の当たりにしたハムレットは、再び葛藤に直面し、現秩序を是認できなくなったと解するのである。ハムレットが現秩序に留まりつつも自分の憎悪を正当化するためには、叔父が罰せられるべき大罪を犯したと考える必要があり、そこで彼の無意識は亡霊の語りを欲したのだということになる。実際宮城氏は、当日の配布物において「いったん『世界から切り離されてしまった』人間が、」「もういちど、世界と和解」しようとする物語だと書いている。
しかしながら、不敵な面構えで落ち着いた今回のハムレットは、反抗心はあっても強く健全な人格統合を感じさせる野武士のごとき人物である。なるほどロマン主義の描く悩める柔弱な青年像は、少なくともこの読みからはふさわしくない。彼はただ受身なのではなく、機知に富んだ弁舌を披露し、ポローニアスを刺し殺すなど行動的だからである。しかしその行動は、多くは激情に駆られてであり、高い知性にもかかわらず計画性に乏しい。彼の内部では「この世の関節が外れてしまった」ことにより様々な力が激しくぶつかり合っており、それがしばしば噴出するのだ。だとすれば、多重人格的あるいは境界性人格的な振る舞いが強調されるべきである。今回の舞台では、墓場でレアティーズにくってかかる代わりに、オフィーリアの死体を前にして号泣する場面が加えられていたが、逆効果ではないか。
さらには、クローディアスによる己の罪の独白場面が省かれず、現実の出来事として扱われる。しかし、精神分析的読解に基づくということはハムレットの主観的世界に焦点を当てるということであり、クローディアスが客観的に弑逆したかどうかは宙吊りにしてしまうべきだろう。結局、そうした読みがあったわけでなく、物語をスリムにするためにカットしたに過ぎないようなのだ。
第二に注目すべきはこのスリム化である。この芝居は長いから短縮は普通だが、今回カットはかなり多い。付加の方は、覆面の人物を登場させてオフィーリア暗殺を示唆するなど意図不明の場合もあるが、ほとんどは削るためのつじつま合わせのようだ。しかし、『ハムレット』は復讐をひたすら延ばし、最後はほとんど偶然、半ば敵失によってそれを完遂するという芝居である。通常は、復讐へ突き進むのでなく、悩み逡巡するというこの「遅延」にこの劇の現代性を見出すわけで、このように迅速に進めてしまうとこの特長は大きく損なわれる。ではそれに代わる何を得たのか。初心者向きになったということを除けば、それが見えないのだ。
これに関連して第三に注目されるのは、このように切られた細部が多い中、劇中劇部分が残され、『リチャード三世』が挿入されたことである。劇中劇は雅語で語られ、内容を把握しづらいことが多いから、同じシェイクスピア作品の主題の共通するよく知られた場面に差し替えるのは面白い試みである。しかしこの部分は、直後のホレイショーとの会話だけでも話を繋げられるから必須ではない。確かに、この芝居の演技性の主題を強調する場面としては重要であるが、ローゼンクランツらが消え、彼らとハムレットの騙し合いが存在しないので、その主題論的連関の豊かさは半減している。
それでは、こうした「深」読みなど要求しない演出であったのかと言えば、そうでもない。第四の注目点は、ラストにおいて、亡霊とよく似たやり方でマッカーサーらしき人影を映し、その演説?を流していたことである。明らかに大戦後のアメリカの日本占領をフォーティンブラスの武力を背景にした王位奪取に重ね、その読み取りを要求しているのである。しかしこの演出では、外敵の脅威というフォーティンブラスに関わる部分や、民衆がレアティーズと共に彼の即位を求めて押かける階級闘争的?な部分など、政治的文脈はほとんど消し去られている。そうしておいて、最後に原作にない政治史的要素を付加しても説得力を欠く。
辛口の批評になってしまったが、これは思い入れの裏返しである。SPACでの演出作品は観られなかったが、休止までの数年間ほぼ欠かさずク・ナウカを観続けた私が宮城氏に期待するものは大きい。氏は「二人一役」と称する画期的な手法で刺激的な舞台を造っていたが、自己模倣になったとしてこれを封印してしまった。しかし、自身でもしばしば踏み越えていたし、何よりこの手法の本質は「言動分離」にあり、その観点からは様々な発展が可能なはずなのだ。例えば、一人のムーヴァーの身体に対し、二人のスピーカーの声がかかっていけば、一人の人間を突き動かす二つの異なる力のぶつかり合いを端的に視聴覚化しうる。『ハムレット』なら「To be, or not to be.」を分割してかけるのだ。革新的手法が鋭い古典読解に結びつけば傑作が生まれる。今後の作品に注目してゆきたい。
(2008年11月22日観劇)