劇評講座

2024年8月19日

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■優秀賞■【リチャード二世】小田透さん

カテゴリー: 2022

心ならずも目撃者となったわたしたち観客の戸惑い

黒い大きな格子に妖しげな光が投じられている。舞台奥から観客席に向かって少し傾いで、どことなく威圧的に、どこどなく不気味にそびえている格子は牢獄を思わせるかもしれない。舞台の両袖は大きく開けているが、そのような広がりは解放感をもたらさない。黒一色の空間の空虚さが際立つばかりである。舞台中央には、棺にも机にも台座にもみえる可変的な黒い長方形の物体が横たわっている。気がつくと、入場してきていた俳優たちがその後ろの、格子の足元の椅子に腰かけている。寺内亜矢子の演出によるシェイクスピア『リチャード二世』は、虚ろな黒さのなかから始まっていく。

寺内の『リチャード二世』は、わたしたちに、君主の戸惑いに戸惑う廷臣の気まずさを見せつける。しかし、共感を促すようなかたちではなく。というのも、そのような感情移入が発生しそうな場面転換の瞬間で、毎回、狙いすましたように、演出が介入してくるからだ。舞台上の出来事にたいして芽生え始めた共感が無理やりに断ち切られる。悲劇に耽溺することを許されないわたしたちは、なぜこうなってしまったのかと、思考を走らせ続けることを強いられる。

登場人物の多いかなり込み入った史劇を、その歴史性や複雑性をいたずらに簡略化することなく、しかし、それでいてわかりやすくとっつきやすいものにすることが、演出家のプランの根底をなしていたようだ。それはおそらく、寺内が、県立の劇団であるSPACの使命と真摯に向き合うことから導かれたものではなかっただろうか。中高生が鑑賞しても愉しめる舞台にすること、しかし、中高生におもねるのではなく、懐の深い古典のポテンシャルを引き出すこと。

舞台がつねにリアルとつながっていることを、わたしたちはたえず意識させられる。虚構と現実を橋渡しするかのような存在——劇中人物とも観客代表とも言い難い、共感を促しつつも断ち切る境界線上の存在――がいる。「この劇の案内人」(永井健二)は劇が始まる前に、登場人物をひとりひとり壇上にあげて紹介するだろう。すると紹介された側も、虚構の役柄を演じる生身の存在であることを告白するように、おどけたように、「〇〇役を務めます」と軽口を叩く。彼はト書きを読み上げて場面転換を促すとともに、幕が終わるごとにそのあらすじをまとめ、次の幕の予告を行う。だからわたしたちは、物語の筋を追うことにとらわれすぎることなく、舞台上で生起する言葉と身体の饗宴を満喫することができるものの、同時に、その虚構性を忘れることができない。

複数のスタイルの共存が異化作用を強化する。キャスティングには、ジェンダーと年齢の面で、意図的な偏りがあったが、それは対立関係を視覚化するための演出的工夫でもあったようだ。既得権益側のリチャード二世サイドは男性で年長より、簒奪者たるボリングブルック側は女性で年少より。タイトルロールのリチャード二世を演じる阿部一徳は、圧倒的な安定度を誇る揺るぎない身体を基盤にして、気まぐれなところからメランコリックなところまで、虚無的な不気味さから突然の感情的な暴発まで、言語的な超絶技巧の演技を軽々と繰り広げ続けていた一方で、もうひとりの主役であるヘンリー・ボリングブルックを演じる本多麻紀は、身体的強度と語りの密度を呼応させるように、怒れる若者の軽率さや勇敢さから、強いられた威厳やいかんともしがたい困惑まで、可変的で柔軟な力強さと繊細さで表出することに成功していた。 しかし、両サイドとも、意図的にニヒルであったり、不思議な踊りであったりと、意誇張された不自然な所作を、力業で自然に提示していた。社会の様々な階層、王家から貴族から民衆までが、異なる演技スタイルによって、的確に演じ分けられていた。

『リチャード二世』は家系の物語だ。臣下としての衷心と、血縁ゆえの僻目とが、本劇のクライマックスをかたちづくることになる。超法規的な、恣意的でしかない、不公平な赦しの可能性が上演される。オーマール(ながいさやこ)は、リチャード二世への忠誠心から、あくまで彼に殉じようとするが、父ヨーク公(木内琴子)は、中立派として、我が子の陰謀を罰しようとする。しかし、ヨーク公爵夫人(片岡佐知子)は、血のつながりを押し通すことで、我が子の赦しを新王ボリングブルックに願い出るだろう。ヨーク公、ヨーク公爵夫人、息子オーマールは、歌舞伎的な、いかにもわざとらしい愁嘆場を演じることになるが、それはいわば、歴史的特殊性のなかで表出する肉親的普遍性が、日本的な表現様式に落とし込まれた瞬間にほかならなかった。そのような様式的交雑性こそ、宮城聰率いる劇団SPACの強みである。この赦しのシーン——そこには「この劇の案内人」までもが口三味線で加わっていた——には、日本的としか言いようのない情緒的なカタルシスがあった。

ただ、寺内亜矢子の演出は、宮城的なものを引きずりすぎたのではないかという気もする。心ならずも王位についたボリングブルックを祝福する音楽がマシンガンやミサイルの音であり、幕切れのかたちながらの和解が分裂の表象にほかならないというアイロニーは、宮城による『ハムレット』を想起させずにはおかない。シティー・ポップ的な軽快な音楽と、舞台上の重苦しさのコントラストも、宮城のアングラ演劇の演出でお馴染みのレパートリーを思い出させる。

しかし、ボリングブルックの独り言めいた希望——リチャード二世の死——を叶えてしまう存在を、フードを被ったロングコートの複数的な存在に転化するという現代的な翻案——そこで彼らと彼女らの声は混ざり合い、匿名的な世論と化すだろう——は、宮城ならば試みなかったかもしれない冒険であり、現代性を強く押し出した演出でもあった。 権力者にたいする忖度は、誰か一人の問題ではない。集団的な問題にほかならない。そして、忖度された側が、忖度されることで、本当に幸福になるかは、決して定かではない。誰もが相手のためによかれと思ってなした行為が、誰のためにもなっていなかったことを、わたしたちは目の当たりにさせられる。利他的な滅私奉公が、環境的な居心地の悪さに転化したことを、わたしたちは強制的に見せつけられる。

虚構の舞台を安全な距離から愉しんでいたはずのわたしたちは、そこで、突如として、現実における戦争の問題を真正面から引き受けることを余儀なくされるだろう。鳴り響く戦禍の音は、虚構の音などではない。舞台はたんなる虚構ではない。ありえるかもしれない可能性であり、ありうべきではない可能性である。アクチュアルなものに転化された史劇がわたしたちに問いかける。これをどうするのか、どうしたいのか、どうすべきなか、と。