劇場と月の距離
「私は、いわば、お月様です。お空に、まんまるの・・・・・・」。こうした印象的なセリフから始まる劇が2024年12月の4日間、SPACにより静岡芸術劇場で上演された。作品は、別役実の初期の代表作とされる『象』。冒頭のセリフを象徴するかのように、演出のEMMAは、月をイメージさせる絵を舞台上方に掲げ、シーンによって光で照らした。劇中にも「月」が登場するが、我々と月との距離はどのくらいなのだろうか――。
物語が展開するのは病院の一室。ここのベッドに病人(阿部一徳)が横たわっている。病人は被爆者で背中にケロイドがあり、かつてはそれを披露して人々から喝采を浴びていた。そのため、また「あの街」へ行き、再びケロイドを見せて注目されたいという願望を抱いている。一方、病室を訪れる男(牧山祐大)は病人の甥で、同じく被爆者だが、「情熱的に生きたい」という病人とは対照的に「静かに死んでしまいたい」と思っている。
つまり、病人は「見られる存在」として生きていきたいと願っている。動物園の象もまた「見せ物」であり、ケロイドと象の皮膚の質感が似ているように捉えられることから、これがタイトルの所以となっているのだろう。
月も同様だ。「月見」という言葉があるように、我々が月を認識するのは概ね「見る」ときだろう。しかも、遠くから眺めることしかできない。また、月のゴツゴツした表面もケロイドと似た印象を受ける。舞台上方の月は、「病人の背中」を表しているのだろう。
月を照らしているのが太陽であるように、病人の背中を照らしているのもまた「太陽」である。原爆が投下された際、「小さな太陽が落ちてきた」と形容された。病人の背中にあるケロイドは原爆によって被ったものであり、太陽と月と同様、切り離せない関係にある。この劇で描かれる「月が太陽の光によって輝く」という状況は、皮肉を超えてもはや「不条理」であると言える。
ただし病人は、単にケロイドを見せびらかしたいわけではない。原水爆禁止大会でケロイドを披露した際、効果的なポーズまで考えて演壇に立ったが、拍手が無かったことに不満を持っている。そればかりか、「見物人」はケロイドではなく、「俺の眼をのぞきこもうとした」ことに憤りを感じている。また、再び観衆の前に立ち、自らカミソリで体を傷付けて血まみれとなり、「皆さん、私は一生懸命やってきました」「私は、この十年間、苦しい生活に耐えぬいて、一生懸命がんばりました」と表明することも計画している。
つまり病人は、ケロイドを見せ物としたいのではなく、「ケロイドがあっても頑張って生きてきた人」として見てほしいのだ。そして、褒めてもらったり、ねぎらってもらったり、称賛されたりしたいのだろう。そうすることで自らのアイデンティティーを保てると考えているのではないか。それに対して、見物人はケロイドを直視できない。そこには恐らく「ケロイドができてしまったかわいそうな人」という意識が働き、目を背けてしまうのだろう。病人と見物人との間には、当事者とそうでない者という明確な立場の違いがあり、その意識の乖離は劇場と月ほども遠い。
このテーマを考える上で重要になるのが、男が病人に話す「赤い月」のエピソードだ。男は「僕が夕方、戸を開けると、いつも正面に大きな赤い月があるんです。そして、遠くの方から、小さな男が走ってくる・・・・・・。アカイツキ、アカイツキ、アカイツキ、アカイツキって叫びながら、走ってくるんです。(中略)その男は一生懸命なんです。一生懸命走ってくるんですよ」と説明するが、月が赤くなるのはどういう状況なのだろうか?
まず思い付くのは皆既月食だ。皆既月食とは、地球が太陽と月の間に入り、地球から見える月面が、地球によって太陽が完全に隠された部分に入る現象を言う。この時、太陽光のうち青い光は散乱してしまうため、赤い光のみが届き、月が赤く見えるそうだ。この状況を踏まえると、月(ケロイド)と太陽(原爆)の間に地球が存在している。地球は我々の存在する地点であり、この劇で言えば原水爆禁止大会の「見物人」を指しているのではないか。被爆の当事者ではない見物人(我々)は、月(被害者)を見るとき、後ろにある太陽(加害者)のことも意識しなければならない。逆もまた同様である。その存在を忘れそうになったとき、小さな男が一生懸命に赤い月の存在を知らせにやってくるのだろう。
この劇が上演された2024年は、奇しくも日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞した。その一方で、経済産業省は12月17日、新たな「エネルギー基本計画」の原案を公表し、原発を「最大限活用する」方針を明記した。経済を活性化させるため、やむを得ない面もあるが、東日本大震災の直後では考えられなかった判断だろう。原発事故の当事者ではなかったとしても、月と太陽の存在を忘れてはならない。